エピソード

松風工業退社を決意(1958年)

U字ケルシマの注文が月を追って増え、稲盛が配属された研究課は1956年11月に特磁課として独立しました。1957年には松下電子工業からの注文は月2~3万本となり、特磁課は会社の大きな収益部門に育ち、稲盛は自ら会社に願い出て、新たな人員を採用してもらいました。この時に入ってきたメンバーが、のちの京セラ創業期を支えるメンバーとなっていきます。

1958年春に特磁課主任に就いた稲盛は、一流の技術者になることを夢見てますます仕事にのめり込んでいきました。しかし、そのわずか3カ月後、松風工業との別れは突然にやってきました。

当時、稲盛が取り組んでいたのはセラミック真空管の開発で、成功すれば事業の大きな柱となるものでした。その真空管にはフォルステライト磁器が使われるため、フォルステライトの合成に成功した稲盛が開発を託されました。期待に応えようと必死に取り組む稲盛でしたが製品化に必要な技術レベルは格段に高く、開発はなかなか進みません。
そんなとき稲盛は、新たに外部から就任した部長に「君の経歴と技術ではそこまで。後は我々がやる。君はこれから手を引いてくれ」と一方的に告げられました。

その言葉に稲盛は、「人の心をまったく理解しない会社にいても、技術者としての夢は実現できない」と考え、その場で「それなら結構です。もう私はいらんということでしょうから、きっぱりと辞めさせてもらいます」と辞意を伝え、会社の慰留も断って12月末をもって松風工業を退職することになりました。

松風工業特磁課のレクリエーションにて  1957年(右端:稲盛)