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稲盛和夫 魂の言葉108

『稲盛和夫 魂の言葉108』(宝島社/稲盛和夫=述、稲盛ライブラリー=構成)から、稲盛の言葉とその言葉に関連するエピソード・情報をご紹介いたします。
<稲盛の言葉>
「この世へ何をしにきたのか」と問われたら、私は迷いもてらいもなく、生まれたときより少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂をもって死んでいくためだと答えます。(P62に掲載)
<宝島社の解説文>
稲盛氏は、この世に生まれてきた理由を「わずかなりとも美しく崇高な魂を持って死んでいくため」と述べています。
魂をより崇高なものへと高めること。すなわち心を磨くということは、あたかも専門家と思えるお坊さんにとっても並大抵のことではありません。そのためにはよほどの修行が必要でしょう。
俗世に生きる私たちにとって、修行とはまさしく「働く」ということ。
これはさらに言えば、心を磨き、魂を高めることが、よく生きることであるならば、そのためには「よく働くこと」が最も大切なのだと言えるのではないでしょうか。
働くということはなにも業績を追求するだけではありません。それも確かに大切なことですが、さらに重要なのはその先にあります。それは、働くことを通じての人間性の向上であり、個々の人々の内的完成なのです。
俗世間に生きるということは、そこにはさまざまな苦楽があります。その一切合切を味わい、幸不幸の波に洗われながら、やがて寿命を全うするその日まで、一生懸命生きていく。この過程そのものを、自らの魂の磨き石と心得るのです。
この魂というものは、その人の「生き方」次第で磨かれもすれば、曇ってしまうものでもあります。いわば限りある人生をどのように過ごすかで、心は気高くもなり、卑しくもなってしまうものなのです。
それは稲盛氏自身も例外ではなく、だからこそ自らを戒める「儀式」を日課としているそうです。驕り高ぶって部下を叱った際、あるいは、調子のいいことを言ってしまったとき、自分の努力が足りなかったとき、こういったことを一日の終わりにホテルの部屋や自宅で、反省するのです。もしくは翌朝目覚めて、昨日を振り返り、洗面所の鏡に映る自分の姿に向かって、「バカモンが!」と厳しく叱りつける。自然と「神様、ごめんなさい」と反省の言葉が口をついて出てくる。
稲盛氏にとって、働くとはこうした日々の反省とセットになっているのです。これは日々、真摯に生きるということが、自らの人間性を鍛えるための修行であることをよく知っているからこそ、行える習慣だと思います。
(『稲盛和夫 魂の言葉108』より)