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稲盛に関するエピソード 「忘年会」

師走、忘年会の季節です。稲盛にとって自社の忘年会への出席は、従業員との絆を深めたいという思いが込められたものでした。
「京セラの場合には、年末の忘年会というのも、伝統的と言っていいくらい、たいへん大事にしてきました。
だんだん会社が大きくなっていく中で、滋賀の蒲生工場では、1,000人くらいいましたので、50人単位で忘年会をやると、20回やらなければなりません。私は従業員全員に会って思いを伝えたかったので、12月に入ったら20回なら20回の忘年会に、毎日出るようにしていました。
忘年会に行って、白けた状態で酒も飲まないというのでは打ち解けて話もできませんから、『まず一杯飲もう』とコップ酒で飲みはじめる。そうするとお互いに打ち解けて、従業員の方も、胸襟を開いて積極的に話をしてくれるようになる。そうしてみんながリラックスした、心を開いた状態のときに、私は必死に会社の現状を訴えました。危機であれば本当に包み隠さず『会社は今、赤字なのだ』ということを諄々(じゅんじゅん)と説きました。その上で、『心配は要らない。私は従業員を守るために必死でがんばるつもりだ。その代わり、みんなもついてきてくれ』と、一生懸命話したのです。
あるときなどは、風邪をひいて熱があるのに、連日点滴を打って忘年会に出ました。そんな状態の身体で、連日一升ぐらいの酒を飲んでいました。傍から見ていると、『そんな無茶をしたら身体を壊すじゃないか』と思われたでしょうが、私は全然そういうことは気にしませんでした。そのように必死になって従業員と一体感をつくろうとしてきました。そのくらい捨て身になって従業員と接しようという態度ですから、従業員の方も徐々に胸襟を開いて話をしてくれるようになっていきました。」(1995年4月15日 盛和塾千葉開塾式講話より)
写真:本音で話すことで絆が深まる(1980年のコンパ風景より)