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稲盛に関するエピソード「ADR発行 アメリカで認められる企業に」

200217

44年前の2月17日は、京セラが初めてADR(米国預託証券)を発行した日でした。アメリカで認められる企業への挑戦には、どのような思いが込められていたのでしょうか。

1976年、京セラはアメリカでの事業展開を加速していました。稲盛が「多国籍化元年」を経営方針に掲げて3年目となったこの年の2月17日、ニューヨーク証券取引所上場(1980年)への布石となるADR発行を実施しました。ADRは、1961年にソニー株式会社が初めて発行した後、他の日本企業が続きましたが、当時その審査基準の厳しさや法律の規制もあってしばらくありませんでした。そのような中、京セラの発行は1963年以来、13年ぶりの快挙として大きな反響を呼びました。

この背景には、京セラをアメリカにおける日本の一企業から、アメリカに根を下ろす多国籍企業へ成長させたいという稲盛の思いがありました。アメリカにおいても顧客から信頼され、大きな利益を上げられるようになり、事業が現地に根づいてきたという手ごたえを感じられたことから、ニューヨークでの上場を目指して発行に踏み切ったのでした。

「おかげさまで、アメリカの現地法人では600人の従業員を抱えるまでになり、かつ同時に去年の生産高は約2,000万ドル、税引き後利益も100万ドル以上になっています。このように成功してまいりましたので、これをベースにアメリカの企業をもっとアクティブに展開していこうと考えたわけです」(1976年3月の社外講演より)

その言葉通り、ADR発行で調達した約1,720万ドルの資金は、アメリカでの企業活動をいっそう拡大するためにすべて現地法人へ投資され、新工場の拡張、現地企業の設立・買収などに充てられました。その後京セラは、アメリカで事業をさらに発展させていくことになります。

写真: ADR発行の契約書にサインする稲盛(1976年)