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寄稿⑥ 「二人の恩師のこと」(『月刊かごしま』昭和48年2月号)

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前年に鹿児島国分工場を新設し、月産10億円を達成して京セラが急成長を遂げる中で、1973年1月、稲盛は「広く小学校、中学校の生徒の心を豊かにする教育のために使ってほしい」と、鹿児島県・川内市・国分市・鹿児島大学に総額1200万円を寄附しました。

郷土への恩返しとして、なぜ小・中学校への教育振興費を特に熱望したのでしょうか。その理由の一端を、同年2月に発刊された『月刊かごしま』に寄稿された稲盛の随筆「二人の恩師のこと」からうかがい知ることができます。この中で冒頭、稲盛は郷土・鹿児島が自らに与えた影響の大きさについて、次のように記しています。

「故郷の風土と人間が、その中で青春の日を送った者の人格形成にいかに大きな影響を与えるものか。私の育った鹿児島が、今日も私の心の中に、脈々と生き続けているといっても、決して過言ではありますまい。あの錦江湾に横たわる雄大な桜島と、鹿児島の街のたたずまいは、いくら世界中を駆け巡ってみても、私にとっては未だに最高の景色であり、そこを舞台に繰り展(ひろ)げられた、多感な青春の日の人間関係が絶えず二重映(うつ)しとなって、懐かしい想い出の頁に、いつしか私を誘って呉(く)れるのである」

このように前置きした上で、今日の自分を形作ってくれた鹿児島の恩師として、私立鹿児島中学校(鹿中)の担任だった修身の斎藤先生と、同じく鹿中の校長先生で終戦後に生徒らを引率して市立第三高校、そして玉龍高校へ移り、稲盛の大学受験を強く勧めてくれた辛島先生のお二人の名前を挙げています。特に、それまでは勉強が嫌いだった稲盛が勉学に志すきっかけを与えてくれた斎藤先生とのエピソードについて、次のように綴っており、その恩返しへの思いが後の教育振興の寄附にも込められていたのかもしれません。

「――あれは、私が一中を受験して落第し、鹿中へ入学した時のことだった。丁度一学期が終って、入学後はじめての成績表が家に郵送されて来るという日がきた。小学校時代からガキ大将で、ろくに勉強もしなかった私にとって、成績表は一番苦手であった。私はその日一日を玄関で待ち受け、やっと届いた成績表を軒下で恐る恐る開いてみた。と同時に、驚きと恥しさと、嬉しさで独り顔を赤らめたことを覚えている。席次は確かクラス中十番目だったと記憶しているが、その中に、担任だった修身の斎藤先生の筆で、『前途有望な好青年である。努力すれば、もっと立派になる!』という意味の評が付記されていたのを発見した。

小学校時代を通じ、あまり成績のことでほめられたことのなかった私には、とっさには信じられないことだった。しかし、次第に照れくさい気持がこみ上げて来るとともに、言知れぬ大きな力で励まされ、勉学への勇気がその瞬間から忽然と湧き上がって来た、あの感動を今も忘れることができない。勉強しはじめ、勉強することに楽しさを覚えるようにすらなった。忘れえない斎藤先生である」