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稲盛和夫の生涯 半導体パッケージ事業における大きな決断

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半導体パッケージ事業が京セラ急成長の最大の原動力となったことは、のちに多くの人が知ることとなるのですが、そこには、いち早く半導体の将来の成長を見抜いた事業家、技術者としての稲盛の決断がありました。

1969年、米国フェアチャイルド社から京セラに、LSI用のセラミック多層パッケージ(ハイデンシティパッケージ:HDP50個の試作依頼がありました。それは、画期的な新しいコンセプトのパッケージで、この試作品を京セラは「3カ月でつくれる」と約束をして引き受けたのです。

そもそも、その「パッケージ」とは何か。
IC(集積回路)は非常に繊細であり、腐食や埃から守るために、何かでそれを保護しなければなりません。保護するためのセラミック1959年に米国でICが発明された当時、アメリカには京セラよりもはるかに大きく、世界でもトップクラスのセラミックメーカーがありました。ですから、インテルなどシリコンバレーの半導体メーカーは、そうした大手のセラミックメーカーにも打診をしたのですが、それら米国内のセラミックメーカーは、半導体の将来性について確信が持てなかったため、大きな設備投資を伴う引き合いに躊躇しました。

一方、稲盛は、それまでのトランジスタ部品やハイブリッドIC用基板生産の経験から、「ICは将来必ず大きな産業に成長する」と確信して、フェア70億円。年間設備投資額の5割に当たる7億円の設備投資を2年間続け、設備や生産方法を確立。そして半導体パッケージ事業に挑戦していったのです。

そしてこの判断が、セラミックメーカーとしてははるかに後発だった京セラを一躍世界の檜舞台に押し上げたのです。

稲盛は経営者として元来設備投資には大変慎重で、既存の設備を活用しつくし、いよいよそれでは生産が間に合わないという状態になってから新たな設備を購入するという姿勢でしたが、この半導体パッケージへの参入時においては、必要な設備に資金投入は惜しまないという思い切った投資をしたのです。

写真
1枚目:半導体パッケージのために大規模投資が行われた鹿児島川内工場
2枚目:業績を牽引した初期のセラミック多層パッケージ

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