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稲盛和夫の生涯㉑ 京セラインターナショナル・インク(KII)設立の軌跡とその苦闘
2022年10月から2年近く毎月配信していました「稲盛和夫の生涯」。今月より続編をお届けいたします。
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京セラの米国進出は1968年、ロサンゼルスの間借りの事務所から始まりました。ほどなく拠点をカリフォルニア州サニーベール、のちのシリコンバレーに移転し、本格的な活動を開始します。
日本人駐在員は、車に荷物を積んで引っ越し、中古の机や初めての自前テレックス・電話を用意し、ここから「米国物語」が始まりました。
当初は商社経由の取引でしたが、非効率さから直接取引をするために、1969年7月に現地法人「京セラインターナショナル・インク(KII)」を設立。社長は稲盛、スタッフは日本人2名というスタートでした。
日本人スタッフは、昼は営業、夜は日本への報告書を作成と、現地では「カミカゼ会社」と呼ばれるほどの働きぶりでした。家族との時間を重視するアメリカ人との労働観の違いから、現地社員が去っていくこともありましたが、「会社の成功と従業員の幸せは不可分」という信念のもと、スタッフたちはがむしゃらに働き続け、シリコンバレーでの信頼を得ていきました。
1971年には大きな転機を迎えます。主要取引先から不採算であったサンディエゴのセラミックパッケージ工場の買収を打診され、稲盛は将来の安定供給を見据え買収を決断。日本人スタッフ5名を派遣し、「京セラフィロソフィが異国の地でも通用することを証明したい」と夢と激励を送り、スタッフを送り出しました。
しかし、日本式の現場主義・率先垂範と、米国式の厳格な役割分担は衝突し、言葉や文化の壁も大きく、意思疎通が図れないことから混迷を極めました。赤字は膨らみ、現地採用の工場長も辞任。稲盛も毎月工場を訪れ、叱咤激励しながら、ときにはモップを手に率先して掃除をする姿勢を見せました。
稲盛は「ここまで彼らを苦しめたのだから、もうやめよう」と苦悩しましたが、スタッフの「続けさせてほしい」との言葉に、「赤字の1億円は君たちの授業料だと思えば安い。思う存分やってみなさい」と背中を押しました。困難の中でも現場主義を守り抜き、生産品目を一つに絞って経営資源を集中させたことで品質が向上。米国経済回復にも助けられ、ついに1973年3月には工場が黒字化を果たします。
この経験が、京セラフィロソフィが国や文化の違いを超えて通用するものであること、現場を重視し、信念を持ち困難を乗り越える姿勢が真のグローバル経営につながることを証明しました。この挑戦と苦闘が、京セラの海外展開の礎となり、今なお大切に受け継がれています。
写真:入居当時のKIIサンディエゴ工場