稲盛ライブラリー
2F 技術・経営:展示内容
松風工業株式会社
1955年、鹿児島大学を卒業した稲盛が就職した松風工業株式会社は、かつて日本を代表する電力用碍子メーカーであったが、第二次世界大戦後は業績が低迷し、稲盛が入社した頃にはいつ倒産してもおかしくないほどに苦しい経営状態に追い込まれていた。そのような中で稲盛は製造部研究課に配属され、「特殊磁器」(現在のファインセラミックス)の研究開発に携わることになった。
日本初、フォルステライトの合成に成功
松風工業に就職し、ファインセラミックスの技術者として歩み始めた稲盛は、早くも1年後に日本で初めてフォルステライトの合成に成功するという大きな研究成果を上げた。
フォルステライトは、テレビなどに使用される高周波の絶縁性能に優れた特性を持っていた。
稲盛はフォルステライトを使って、当時、普及の始まる黎明期にあったテレビのブラウン管部品(U字ケルシマ)を開発した。このU字ケルシマはブラウン管のカソード(陰極)を支持するためになくてはならないもので、後に創業期の京セラを支える製品となった。
このフォルステライトは当時のブラウン管部品や抵抗芯体などの材料として広く使用され、テレビやラジオ、カメラなどの家電製品の普及に貢献した。

独自の電気トンネル炉を考案
U字ケルシマの生産が増えるに従って、大量の製品をより効率的に生産するために、稲盛は従来のバッチ式(※)の電気炉に替えて、連続電気トンネル炉を考案した。
製品を載せた台板がプッシャーによって搬送される方式で、それまで仮焼、本焼、余熱の各工程を3つの炉を使って製品を移し替えながら焼成していたものが、1つの炉でまとめてできるようになったことで生産性を飛躍的に向上させ、当時としては画期的なものであった。
※ 1つの設備である程度まとまった工程(セラミックスの焼成であれば、仮焼、本焼等の工程)ごとに処理を区切り、原材料をこの区切りごとにまとめて投入する処理のこと。

京セラ株式会社
1959年、稲盛は京セラ株式会社(創業時の名称、京都セラミック株式会社)を創業、世界を代表するファインセラミックメーカーに育て上げた。
京セラグループは現在、各種のファインセラミック部品、電子デバイス事業に加え、通信機器、情報機器、ソーラーエネルギー事業など多角化を世界各国で展開する企業グループに成長している。
京セラは創業以来60余年にわたって通年で一度も赤字に陥ることなく、高い利益率を常に維持し続けるなど、企業史上でも稀有な高収益経営を続けている。
1959~1963年
高い目標を持って京セラを創業
1959年4月、7名の同士とともに京都セラミックを設立し、取締役技術部長に就任。 京都の配電盤メーカー 株式会社宮木電機製作所の一画にあった小さな倉庫を借りて創業したが、稲盛は事業を発展させるには高い目標が必要との考えから、「今に京都一、次に日本一、いずれは世界一の会社になろう」と、機会あるごとに社員に大きな夢を語り続けた。そのことが社員を勇気づけ、仕事への情熱をかき立てて京セラ成長の原動力となった。

経営理念の確立
京セラ創業の目的は「稲盛和夫の技術を世に問う」というものであった。
しかし、創業3年目の春、前年に採用した新入社員が、将来にわたる待遇の保証を求めて団体交渉を申し入れてきた。
三日三晩かけた話し合いの末に彼らも理解し、要求を撤回して会社に残ったが、このことで、稲盛は企業を経営するということは、「現在はもちろん、将来にわたっても従業員やその家族の生活を守っていくということである」と気づいた。
この経験から稲盛は、経営とは、経営者が持てる全能力を傾けて、従業員が幸福になれるように最善を尽くすことであり、経営者の私心を離れた大義名分を企業は持たなくてはいけないという教訓を得た。
そこで、「全従業員の物心両面の幸福を追求する」ということを経営理念の冒頭に掲げ、さらに社会の一員としての責任を果たすために、「人類、社会の進歩発展に貢献すること」という一項を加え、京セラの経営理念とした。
経営理念
全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること
会社の歩み
1959年 | 京都市中京区西ノ京原町に京都セラミック株式会社を創業 |
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1960年 | 従業員に増資分を功労株として割り当て全員が株主となる |
1961年 | 高卒社員の団体交渉を契機に経営理念を確立 |
1962年 | アメリカに初の海外出張 |
1963年 | 滋賀蒲生工場を新設 |
社会の動き
1959年 | 皇太子明仁親王、正田美智子さんとご成婚 |
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1960年 | ローマオリンピック開催 |
1961年 | ソ連が世界初の有人宇宙飛行に成功 |
1963年 | 黒部第4ダムが完成 |
技術者としての稲盛
アルミナ磁器の製品化
京セラ最初の高純度アルミナ(ファインセラミックスの代表的な材料の1つ)磁器製品は、ブラウン管のカソードを支持するカソードチューブであった。
高純度アルミナ磁器はフォルステライト磁器に比べ焼成温度がはるかに高いため、焼成炉をつくることから始めなければならなかった。
また肉厚の極めて薄い部品を成形する新たな成形法の確立など、困難な課題を乗り越えて、稲盛はこの高純度アルミナ磁器の製品化及び量産化に成功した。
これを契機にアルミナ磁器の生産技術は京セラの発展を支えていくこととなった。
1964~1968年
アメーバ経営を考案
1963年に滋賀蒲生工場が完成し、西ノ京原町の本社工場との2工場体制となった。稲盛は規模が拡大する会社の状況をタイムリーに把握するための管理会計指標として「時間当り採算制度」を1965年に考案した。
時間当り採算とは、「売上を最大に、経費を最小に」すれば、その差である付加価値も最大になるという経営の原則を採算表の形で表したものである。
自分たちが生み出した付加価値を総労働時間で割ったものが1時間当りの付加価値であり、これを「時間当り採算」と称している。
また、社員の経営への参画意識を高め、その力を結集していくための仕組みとして、稲盛は独自の小集団独立採算制度である「アメーバ経営」を作り出した。
アメーバ経営は、組織を細分化して、それを独立した採算単位(アメーバ)とし、そのリーダーに対して経営計画、実績管理、労務管理など経営全般を委任するもので、リーダーはそれを通じて経営者としてのマインドと能力を身に付けていくことができる。
また、全ての経営実績を、アメーバを構成する全員に開示することによって、全員参加の経営が可能となるシステムである。

会社の歩み
1964年 | 貿易部を発足させる |
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1965年 | 時間当り採算制度を開始 |
1966年 | 代表取締役社長に就任 |
1967年 | 稲盛の経営哲学や経営思想をまとめた「京セラフィロソフィー第1集」が社員に配付される |
1968年 | 第1回中小企業研究センター賞を受賞 |
社会の動き
1964年 | 東京オリンピック開催 |
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1965年 | 名神高速道路が全線開通 |
1966年 | 日本の総人口が1億人を突破 |
1967年 | EC(欧州共同体)、ASEAN(東南アジア諸国連合)が発足 |
1968年 | 小笠原諸島が23年ぶりに日本に復帰 |
技術者としての稲盛
世界初の汎用コンピュータとして一世を風靡したIBM社の「システム/360」の心臓部であるIC用基板に京セラ製アルミナサブストレート(基板)が採用された。
この基板は材料技術、加工寸法精度、平面度、表面粗度などあらゆる点で当時の最高レベルを行くセラミック基板であった。これ以降、京セラ製アルミナサブストレートはIC用基板の業界標準としての地位を確立し、ファインセラミックメーカーとして京セラは広く国内外の電機、電子メーカーに認知されることとなった。
1969~1973年
世界初IC用セラミック多層パッケージを開発
1960年代初頭、アメリカの半導体産業の勃興期に、稲盛はファインセラミック技術を応用して、半導体を保護するために不可欠なセラミック多層パッケージ(容器)の開発に着手した。テープ成形技術や同時焼成技術など、当時のセラミック技術の常識を超えた新しい生産技術を開発することにより、製品化に成功した。
この新製品の持つ大きな将来性を確信した稲盛は、大胆な設備投資を決断し、さまざまな困難を乗り越えて、世界に先駆けて量産化に成功した。京セラは、その後もお客様第一主義に徹して急成長を遂げ、世界の半導体産業の発展に大きく寄与した。

大阪証券取引所市場第二部に上場
稲盛は、京セラが株式上場するにあたり、どのような方法が最も京セラにとって望ましいかを第一に考えた。
通常、企業が上場する場合には3つの方法がある。
1番目は、旧来の株主が保有する株式を市場に放出する方法で、既存の株主に大きな利益をもたらす。
2番目は、会社が新株を発行して市場に公開する方法で、上場時の株式代金は会社に入る。
3番目は、両者の折衷案である。
稲盛は、2番目の新株の発行によって上場する方法を採用した。
これにより、上場時の株式代金は全て京セラに入り、その後の積極的な事業展開を支える強固な財務基盤が築かれた。
会社の歩み
1969年 | 鹿児島川内工場を開設し、IC用セラミック多層パッケージの量産を開始 |
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1971年 |
サンディエゴ(アメリカ カリフォルニア州)で初の海外生産を開始 |
1972年 | 鹿児島国分工場を開設 |
1973年 | 月商9億円達成記念で社員を香港旅行に招待 |
社会の動き
1969年 | アメリカ「アポロ11号」が人類史上初めて月面に着陸 |
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1970年 | 大阪で日本万国博覧会が開催 |
1971年 | ドル・ショックにより円が変動相場制に移行 |
1972年 | 沖縄の施政権が返還され、沖縄県が発足 |
1973年 | 第1次オイルショック |
技術者としての稲盛
陶磁器や碍子と異なり、セラミックスの中でも組成や組織、形状、製造工程を精密に制御し、新しい機能や特性を持たせたものを、現在では一般に「ファインセラミックス」と呼ぶことが定着しているが、ファインセラミックスという名称を初めて用いたのが稲盛であった。
1974~1978年
オイルショックと雇用死守 高い生産性を維持する
1973年に起こった第一次オイルショックによる不況で、京セラの受注高は、10分の1に激減した。この不況に際して稲盛は、雇用は死守すると宣言した上で、生産性の維持、全員による営業活動、新製品開発など、考えられる全ての対策を実行した。
それでも、需要の低迷は続き、創業以来の危機と判断した稲盛は、管理職の賃金カットに踏み切るとともに、労働組合にも賃上げの凍結を提案するという苦渋の決断を下した。
社員は会社の置かれた厳しい状況を理解し、賃上げの一時凍結も受け入れ、業績の立て直しに一丸となって懸命な努力を払った。社員にこうした姿勢が生まれたのも、創業以来、稲盛が常に社員の物心両面の幸福の実現に心を配ってきたことを社員がよく理解するとともに、ガラス張りの経営を行って社員が会社の経営状況をわかるようにしてきたからに他ならない。この決断の結果、京セラはその後の景気回復局面で他社に先駆けて業績を回復し、稲盛は次年の昇給で前年の分も含めた大幅な昇給を実施するとともに臨時賞与も支給するなどして、社員の努力に報いた。この大きな試練を機に、京セラの企業体質は一段と強化され、その後はオイルショック以前にも増した発展を遂げることとなった。

不況に対する心構え
この時の経験をもとに稲盛がまとめた不況に対する予防と対策
- 不況に備えての予防策
- 高収益であれ
- 不況における対策
- 全員で営業する
- 新製品開発に全力を尽くす
- 原価を徹底的に引き下げる
- 高い生産性を維持する
- 良好な人間関係を築く
会社の歩み
1974年 | 「電子回路用セラミック積層技術の開発」により昭和49年度科学技術庁長官賞受賞 |
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1975年 |
京セラの株価が日本一になる |
1976年 | アメリカ預託証券(ADR)を発行 |
1977年 | セラミックエンジンを開発する応用技術研究所を発足 |
1978年 | 「単結晶サファイア質セラミックス製生体用材料」が科学技術庁の第38回注目発明に選定される。 |
社会の動き
1974年 | フォード大統領がアメリカ大統領として初めての来日 |
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1975年 | フランスのランブイエ城で第1回主要先進国首脳会議(ランブイエ・サミット)開催 |
1976年 | ロッキード事件起きる |
1977年 | プロ野球の王貞治選手が756本塁打の世界記録を達成 |
1978年 | 日中平和友好条約調印 |
技術者としての稲盛
高度経済成長を経て経済的な豊かさを手にした日本では、アクセサリーやファッションなどに目を向ける余裕が生まれつつあった。
なかでも、指輪やネックレスなどの宝飾品への憧れは強かったが、エメラルドやルビーなどの良質な天然石は世界的に不足しつつあり、高価なものであった。
稲盛がファインセラミック技術を応用して、天然石と全く同じ組成と構造の再結晶宝石を世に送り出そうと決意したのは、人々の夢をかなえたいという思いからだった。
1979~1983年
サイバネット工業、ヤシカを相次ぎ買収
稲盛は1979年に通信機器メーカーのサイバネット工業株式会社を、1983年にはカメラメーカーの株式会社ヤシカを相次いで買収した。
いずれの買収も救済を請われて行ったものであった。
稲盛はそれ以前から多角化戦略を進めていたが、電子機器やカメラ事業への参入は、セラミック技術の延長ではなく全くの異業種への展開であっただけに、リスクの高いものであった。しかし、稲盛は、従業員を助けて欲しいという相手経営者の真摯な思いと、将来への不安がある中でもまじめにひたむきに働く社員の姿勢に心を打たれ、何とか救ってあげたいという純粋な心から買収を決断した。
買収後は過激な労働組合に悩まされたこともあったが、相手企業の社員を救うためという一心で両社の経営を立て直した。
その後、この2社の人材が、京セラの通信機器事業の中核を担い、また第二電電の立ち上げで活躍するなど京セラグループ発展の大きな力となった。

会社の歩み
1979年 | 通信機器メーカーのサイバネット工業株式会社を買収 |
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1979年 | 創立20周年と月産50億円達成を記念し、社員をシンガポール旅行に招待 |
1980年 | ニューヨーク証券取引所に株式を上場 |
1981年 | 太陽電池を単独電源として民生用に商品化した初の商品「ポータブル型太陽電池SB-Ⅱ」を発売 |
1982年 |
京セラといすゞ自動車株式会社が世界で初めて開発したセラミックエンジンカーの試走がNHKで放映され、ファインセラミックブームを巻き起こす |
1983年 | カメラメーカーの株式会社ヤシカを買収 |
社会の動き
1979年 | アメリカと中国が30年ぶりに国交を回復 |
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1981年 | 円高が進み初めて1ドル=200円を割り込む |
1982年 | フォークランド紛争勃発 |
1983年 | 東京ディズニーランドがオープン |
技術者としての稲盛
セラミックエンジンの開発
アメリカや日本で、内燃機関の効率向上が研究され始めたのに対応して、稲盛はディーゼルエンジンやガスタービンへのファインセラミックスの応用を考えた。
高温に強い窒化珪素を用いて、独自の成形法を考案してシリンダやピストン、ヘッドプレート等を全てセラミック化したオールセラミックスの無冷却エンジンを設計した。このエンジンを搭載したいすゞ自動車の「ジェミニ」が疾走する姿が1982年のNHKの正月番組で全国放送されると、世界で初めて「焼き物のエンジンで車が走った」と国内外に大きな反響を巻き起こし、ファインセラミックスに対する関心と評価が一挙に高まった。
1984~1988年
社員に株式を贈り、全社員を京セラの株主に
稲盛は創業以来、経営への参画意識を持つためにも、社員が京セラの株式を持つことを奨励してきた。株式上場後は自社株投資会を設立していたが、株価の高い京セラの株を持つことは容易なことではなかった。1984年4月1日に京セラが創立25周年を迎えた際、稲盛は四半世紀にわたる社員の苦労に報いたいと、3泊4日の東京旅行を実施した。その旅行中に行われた創立記念式典後のパーティーの席上、稲盛は社員への感謝の言葉とともに、自らの保有する株式の一部を全社員に贈った。
それは社員の長年の労をねぎらうとともに、全社員が京セラの株主となることで、経営への参画意識を持って仕事に当たってもらいたいと願ってのことであった。

会社の歩み
1984年 | 「大規模集積回路用セラミック積層技術の開発」で紫綬褒章を受章 |
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1985年 | つくば市で開催された「国際科学技術博覧会」に出展 (京セラの金セラが公式記念メダルの素材に採用される) |
1986年 | 代表取締役会長兼社長から代表取締役会長専任となる |
1987年 | 太陽電池の生産を行うジャパン・ソーラー・エナジー株式会社を合併 |
1988年 | ドイツに欧州統括会社京セラ・ヨーロッパGmbHを設立 |
社会の動き
1984年 | NHKが衛星放送を開始 |
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1985年 | 国際科学技術博覧会「科学万博 つくば博」開幕 |
1986年 | ソ連チェルノブイリ原子力発電所で原子炉爆発起きる |
1987年 | ニューヨーク市場で株価大暴落(ブラック・マンデー) |
1988年 | ソウルオリンピック開催 |
技術者としての稲盛
セラミック生体材料の開発
セラミックスの優れた生体適合性に着目した稲盛は、セラミックスを応用して人工歯根や、股関節、膝関節などの人工関節を開発した。単結晶サファイアやジルコニアセラミックスを原材料としたセラミックスの生体材料は広く利用され、多くの患者に喜ばれている。
1989~1993年
国を越えた株式交換を実現 AVX(アメリカ)を買収
1990年、電子部品事業を世界規模で強化するために、アメリカの大手電子部品メーカーであるAVX Corporation(現KYOCERA AVX Compornents Corporation)を京セラグループ入りさせた。
その際、外国企業との間での株式交換という、それまで日本には前例のなかった方法で買収を実現した。当時の日本では、商法上の理由から外国企業との株式交換は不可能とされていた。
しかし、稲盛は法律の趣旨や内容を検討した結果、十分に可能であるとして、行政当局と粘り強く交渉し、実現したのである。
常識をうのみにせず、なぜ、どうしてという疑問を持って突き詰めていくことで、それまで不可能と思われていたことを実現したのであった。
さらに、AVXの経営において稲盛は、同社の経営陣に経営を任せる一方、「人間として正しいことを貫く」という企業の理念、哲学については徹底的な理解と共有に努めた。同社は買収後5年足らずという短期間でニューヨーク証券取引所への再上場を成し遂げ、その後も順調に成長発展を遂げている。

会社の歩み
1989年 | アメリカのコネクターメーカー・エルコグループを買収 |
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1990年 | 創立30周年記念事業として「京セラ技術展」を東京と大阪で開催 |
1991年 | 京セラ環境憲章を制定 |
1993年 | 業界で初めて住宅用の太陽光発電システムを発売 |
社会の動き
1989年 | 昭和天皇陛下が崩御され、新元号が平成と定められる |
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1990年 | ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツが西ドイツに編入され、統一ドイツが誕生 |
1991年 | イラクで湾岸戦争勃発 |
1992年 | 学校週5日制がスタート |
1993年 |
世界最大の経済圏EU(EC統合市場)が発足 |
技術者としての稲盛
装飾用セラミックス
高温で焼結されたアルミナセラミックスは美しい透光性を持つ。そうしたセラミックスの持つ〝美〟に注目した稲盛は、創業当時より、ファインセラミックスを装飾品や芸術的な用途に利用できないかと研究を始めていた。試行錯誤を繰り返しながら、1974年には美しい光沢の赤や青の多結晶アルミナを開発した。
さらに改良を重ねた結果、より透明度が高く、色鮮やかな素材を開発した稲盛は、そこにドイツ・マイセン社の絵付けを施した「イナモリコレクション マイセンデザイン」、薩摩焼きの絵付けをした「玉磁」などの工芸品を生み出した。
現在では、装飾用セラミックスの製造技術を応用して高級時計用のケースやベゼル、携帯電話のプッシュキー、カメラの部品などにも金、銀、黒、白、茶などのカラーセラミックスが用いられるようになっている。
1994~1998年
三田工業の再建を成功させる
1998年、複写機の中堅メーカーであった三田工業株式会社が倒産し、救済を求められた稲盛は再建を引き受けた。放漫経営やデジタル化への対応の遅れによって経営危機にひんした中で、会社を存続させ、社員を守りたい、また三田工業の製品を取り扱ってきた販売代理店やユーザーの方々に大きな迷惑をかけられないと、当時の社長は会社更生法の申請に踏み切り、稲盛に救済を求めてきたのであった。
稲盛はその思いを受け止め、同社で働く社員を救いたいとの純粋の思いから引き受けた。京セラの全面的な支援を得て、同社は社名も京セラミタ株式会社と改め、短期間に業績を回復させ、更生計画を7年も前倒して、2002年3月末に終了させた。
その後、京セラのプリンタ事業との事業統合を行い、現在では京セラドキュメントソリューションズ株式会社として、着実な成長を遂げている。

会社の歩み
1994年 | Jリーグで戦えるプロサッカーチームを育成し、京都の活性化につなげるために、京都財界の中心になって株式会社京都パープルサンガを設立 |
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1995年 | 京都商工会議所会頭に就任 |
1996年 | 株式会社京セラソーラーコーポレーションを設立 |
1997年 | 京セラ代表取締役会長を退き、取締役名誉会長となる |
1998年 | 京都市伏見区竹田に京セラ本社ビルが完成 |
社会の動き
1994年 | 関西国際空港が開港 |
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1995年 | WTO(世界貿易機関)が発足 |
1997年 | イギリスが香港の主権を中国に返還 |
1997年 | 東京湾アクアラインが開通 |
1998年 | 長野県で第18回冬季オリンピック開催 |
技術者としての稲盛
アモルファスシリコンドラムの開発
稲盛は、プラズマCVD法の技術をコピー機、プリンターの感光体に応用することを目指してアモルファスシリコン感光ドラムの開発に着手した。
大面積で瑕疵のない、均一な膜を作成することは容易なことでなかったが、5年間の開発を経て1984年に量産化に成功し、電子写真方式の複写機の心臓部として使われるようになった。
京セラドキュメントソリューションズの製品の大きな特長となっているのが、長寿命、高感度、高耐熱性で環境に優しいというアモルファスシリコン感光ドラムである。
1999~2008年
太陽エネルギーの事業化に成功
稲盛は、第一次オイルショックの余韻もさめやらぬ1975年、石油が枯渇するという世界的エネルギー危機の克服に自社の技術で貢献したいとの思いから、太陽電池の開発に乗り出した。
しかし、オイルショック後は石油の需給が緩和し、代替エネルギー開発の機運が急速に低下したため、太陽電池の市場は長い低迷期に入ることとなった。
各国の研究開発予算も縮小する中で研究や事業から撤退する企業も相次いだ。
このような困難な時代でも稲盛は、太陽光発電を通じて世の中に貢献するとの信念を変えることなく、より高効率の太陽電池の開発やさまざまな用途開発を行って太陽電池の普及拡大への努力を続けた。
こうした苦しい時代はおよそ四半世紀続いたが、1990年代後半から環境問題への関心の高まり、再生可能エネルギーの利用を促進する政策の導入が始まったことから事業環境は好転し始め、太陽電池市場において京セラは世界的なメーカーとしての地位を確立したのであった。

会社の歩み
2000年 |
京セラミタ株式会社(現・京セラドキュメントソリューションズ株式会社)が発足 |
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2001年 | KIIを通じプリント配線基板用ドリル専業メーカー、タイコム・コーポレーション(アメリカ)を買収 |
2002年 | 東芝ケミカル株式会社を買収し、京セラケミカル株式会社に社名変更 |
2003年 | 京セラ(天津)商貿有限公司(現・京セラ(中国)商貿有限公司)、京セラ(天津)太陽能有限公司を設立 |
2004年 | 日本メディカルマテリアル株式会社を設立 |
2005年 | 鹿児島大学に稲盛経営技術アカデミー(現・稲盛アカデミー)を開設 |
2006年 | 京セラ韓国株式会社を設立 |
2008年 | 三洋電機株式会社より携帯電話事業を承継 |
社会の動き
1999年 | 欧州単一通貨「ユーロ」誕生 |
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2000年 | シドニー五輪女子マラソンで高橋尚子が日本女子陸上競技会では初の金メダルを獲得 |
2001年 | アメリカ同時多発テロ事件発生 |
2003年 | 日本郵政公社が発足 |
2006年 | 第1回ワールドベースボールクラシックで日本が世界一となる |
2008年 | リーマン・ショックにより世界的大不況起きる |
技術者としての稲盛
太陽電池の開発
石炭や石油など限りある化石燃料に依存する近代社会の将来を危惧した稲盛は、材料技術や結晶技術を生かして太陽電池の開発に着手。日本で初めて無線中継局の電源用太陽電池を商品化した。その後、当初のEFG法によるリボン結晶太陽電池から、より生産性が高く、コストパフォーマンスのよい鋳造法による多結晶シリコン太陽電池の開発を進め、常に発電効率を向上させ続けることで太陽電池の普及を支えてきた。
京セラ創業からの業績推移(連結)
このグラフは、京セラ創業から現在までの業績推移を表し、売上を緑、税引前利益を青で示している。創業時より一度も赤字決算を出したことはなく、さまざまな経営環境の変化の中でも、おおむね10%を超える利益率を維持している。
左下のグラフは、創業からの10年間を抜き出したもので、1966年にはIBMのサブストレート(アルミナ基板)の受注が功を奏し、それ以降、急速に売上を伸ばしている。
創業1年目は、売上2,600万円、利益は300万円。創業時より稲盛は、西ノ京原町で一番、次は京都一、日本一、世界一を目指そうと、口癖のように社員に事あるごとに説き、実際にセラミックメーカーとしては、世界一となった。常に夢を描き、諦めないこと、希望を持って、目標を追求し続けることが大切なことであるという稲盛の考えを体現している。

KDDI株式会社
1984年の電気通信事業の自由化決定により民間企業が通信事業に参入できるようになったことから、稲盛は第二電電企画株式会社(第二電電株式会社の前身)を設立して通信事業に参入。長距離専用サービス、市外電話サービス、セルラー各社による携帯電話事業などに事業を拡大し、第二電電(DDI)を新電電3社中トップ、国内大手の通信会社に育て上げた。さらに、2000年には第二電電、KDD(国際電信電話株式会社)、IDO(日本移動通信株式会社)の3社統合を実現し、KDDI株式会社の設立に導いた。
1984~1987年
『動機善なりや、私心なかりしか』と自らに問い、通信事業に参入
かねて日本の電話料金が高く国民生活に負担をかけていると考えていた稲盛は、1984年に電気通信事業の自由化が決まったとき、民間企業がこぞってこの分野に参入して国民のために長距離電話料金を安くして欲しいと願った。
しかし、巨大なNTTに対抗することは大きなリスクが伴うためか、新規参入する企業はなかなか出てこなかった。そのような状況に稲盛は、この事業はベンチャーとして身を起こし、企業経営を通じて世のため人のために役立とうという哲学を持つ自分がやるべきではないかと思うようになり、通信事業への参入を決意した。
稲盛は、電気通信事業に乗り出そうとするのは、国民のために電話料金を安くしようという純粋な動機からなのか、その動機には一点の曇りもないのか、という自問自答を繰り返した。「動機善なりや、私心なかりしか」と半年近く悩んだ末に、動機は善であり、私心のないことを確信できた稲盛は、第二電電を設立し、いかに困難な事業であろうと国民の利益のためにやりとげようという不退転の決意を固めたのであった。

市外電話サービスで巻き返しに成功
企業や団体向けの専用サービスでは、大株主や大企業、官庁といった大きな組織をバックに持たない第二電電はたいへんな苦戦を強いられた。
このままでは事業を軌道に乗せることができないと考えた稲盛は、市外電話サービスが始まるのを機に、「電気通信に正しい競争を起こし、国民のために電話料金を下げる」という創業の原点に立ち返って、いち早く活動の重点を従来の専用サービスから一般市民向けの市外電話サービスにシフトした。
競合2社に先駆けて市外電話サービス専任の営業部隊を作り、人材をそちらに振り向け、活発な営業活動を展開した。その結果、1987年9月の市外電話サービス開始時には、競合2社がそれぞれ27万回線と15万回線だったのに対して第二電電は45万回線と圧倒的な回線数を獲得したのだった。市外電話サービスでの成功によって第二電電の事業は成長軌道に乗り、新電電のトップに立ったのである。

1987~1992年
携帯電話の時代を見通し移動体通信事業に参入
当時、移動体電話では自動車電話が主流で、電波法の制約からNTTの独占が続いていた。このような時代に、半導体など部品の小型化技術の進捗から、遠からぬ将来、携帯電話も小型化され、人々が日常的に持ち歩く時代が到来することを予測していた稲盛は、第二電電設立当初から移動体通信事業に関心を持っていた。
その後、1986年8月に移動体通信の自由化が決まると直ちに参入を表明した。この時、稲盛が視野に入れていたのは既存の自動車電話ではなく、一人ひとりが持ち歩く現在の携帯電話であった。しかし参入に当たっては、周波数の制約から、同一地域ではNTT以外には1社しか認められなかったため、日本高速通信株式会社と第二電電でサービスエリアを分割することとなった。
この調整は事業の存亡にも影響するだけに難航を極め、なかなか決着がつかなかった。そのような中で、調整ができないために不利益を受けるのは国民であると考えた稲盛は、最も多くの利用が見込まれた首都圏と中部東海圏を日本高速通信に譲り、それ以外の地域を第二電電がサービスエリアとすることで決着させた。稲盛にとっては不本意な決着であったが、国民のために一日も早く移動体通信事業を開始するためにはやむを得ず、「負けるが勝ち」との思いで受け入れた。
移動体通信事業を成功させるためには、地域に根差したサービスが必要と考えた稲盛は、各地域にセルラー事業会社を設立し、そこに電力会社など地域の有力企業からの出資を募り、事業に参画してもらうことにした。この戦略が奏功して、セルラー事業は順調に業績を伸ばすこととなった。

1993~1997年
新電電3社のトップを切って株式を上場
1993年9月3日、第二電電は新電電3社のトップを切って当時の東京証券取引所市場第二部への上場を果たした。前身である第二電電企画の設立から9年、事業会社に移行してから8年という短期間での上場であった。市場の期待は大きく、370万円の公募価格に対して初値は550万円に達した。上場は第二電電にとって、資金調達力の向上や、社会的な認知度向上に大きく資するものであった。社員もまた上場を契機に自社への誇りとやる気をいっそう高め、事業にまい進した。
上場に先立つ1987年11月、稲盛は、社員一人ひとりに「経営者」であるという意識を持って欲しいという願いと、創業以来の苦労に報いたいとの思いから、希望する社員には株式を購入できるようにした。
しかし、このとき稲盛自身は、日本の電話料金を安くしたいという、私心のない純粋な動機で参入したとの思いから、自らは株を持たないこととした。

1998~現在
国民の利益のために小異を捨てて大同につく ~KDDIの誕生~
通信自由化は実現したものの、1999年当時の通信市場はいまだNTTグループが圧倒的な力を持ち続けていた。
このような状況に対し稲盛はかねてから、巨大なNTT対新電電各社という構図では真の通信自由化は実現できない、日本の通信業界の健全な発展のためにはNTTへの確固たる対抗軸が不可欠であるとの強い思いを抱き、他の通信会社との統合のチャンスを探っていた。そこに国際電話事業のKDD、携帯電話事業会社のIDOとの合併という話が持ち上がった。実際に合併の交渉に入ると各社のさまざまな思いや考えの相違もあって、交渉は困難を極め、何度も頓挫しかかったが、稲盛は「3社が一緒になってNTTに対抗しなければ、日本の真の通信自由化はない」という信念に基づいて、通信自由化の重要性と、3社が果たすべき役割について粘り強く説得し、「小異を捨てて大同につく」という高い理想に基づいた企業統合に導いた。
3社合併に当たっては、経営責任の明確化や意思決定の迅速化など、経営の主体を明確にするために、対等合併ではなく第二電電を中心とする3社統合を実現した。そのことがその後のKDDI躍進の重要な要因となった。

日本航空株式会社
第二次世界大戦後、日本の航空輸送を担う国策会社として半官半民の体制でスタートを切った日本航空は、長らく日本を代表する航空会社であった。しかし、1991年のバブル崩壊以降の需要の落ち込みをきっかけに業績が低迷し、2010年1月に会社更生法の適用を申請するにいたった。稲盛は政府より同社の経営再建を再三にわたり要請され、引き受けることとなった。就任後、稲盛は、経営幹部から現場社員に至るまでの徹底した意識改革と、アメーバ経営によって社員の採算意識を向上させることにより短期間で再建、収益性の高い航空会社へと導いた。
日本航空再建を引き受ける
日本航空は長期にわたる業績の不振により財務体質が悪化し続けていた。
政府は、今後さらに厳しさを増す国際的な航空競争の中で、日本の航空ネットワークを維持するためには、同社の抜本的な改革が不可欠として、更生法を適用し同社を再生させることを決定した。そして、同社再生を託せる経営者として選ばれたのが稲盛であった。稲盛自身は、そのような任ではないと再三固辞したが、最終的には、
- 日本経済衰退の象徴であった日本航空を再建することにより、国民が日本経済も再生できると自信を取り戻す
- 日本航空に残された社員を救い、雇用を守る
- 日本航空の再建により競争原理が働き、安価で良質なサービスを国民に提供する
という3つの大義から、政府の要請を受け入れ、会長に就任した。
会長就任に際しては、高齢であり、また他の仕事もあるため、100%専念することができないとの理由から、報酬は一切受け取らず、経営再建に当たった。
当時、多くのマスコミは、長年にわたる親方日の丸的な企業体質や複雑な組合問題、また事業の大幅な縮小やブランドイメージの致命的な毀損などから、再建は不可能であり、二次破綻は必至であるというような報道を続けていた。

意識改革の取り組み
稲盛が経営破綻の原因として痛感したのは経営幹部のリーダーとしての自覚の欠如であった。意識改革なくして日本航空の再建はあり得ないと確信した稲盛は、まず幹部社員の意識改革に着手した。
2010年6月、約50名の幹部を集めて、「人間として、また集団のリーダーとしてどうあるべきか」ということを17回にわたり集中的に教育した。一方、羽田や成田などの主要空港に出向いて運航部門、客室部門、整備部門、空港部門などの現場の社員に、仕事に対する考え方を直接説いていった。当初は違和感や反発を覚える幹部や社員もいたが、真摯に語りかける中で、社員の意識は大きく変わっていった。
さらに、稲盛の経営哲学をベースに、社員の判断や行動の規範となる「JALフィロソフィ」をつくり、全社員での共有に努めた結果、お客様に対するサービス意識の向上や部門を越えて協力し合う一体感、社員一人ひとりが主体的に考え行動する姿勢などが日本航空の中に生まれていった。

採算性改善への取り組み
就任当初の稲盛の目には、日本航空では採算意識が希薄で、ほとんどの幹部や社員が経営数値に関心を持っていないように思えた。
そこで、アメーバ経営をベースに路線別の収支、及び路便別の収支を即座に把握し、必要な対策を打つことのできる仕組みを構築し、路線ごとの責任者を決め、その責任者が中心となって収益性を高めるための創意工夫を重ねていけるようにした。
このように、アメーバ経営に基づいて日本航空独自の管理会計の仕組みをつくり、各部門の経営実績が短期間で詳細にわかるようにした。また、各本部や関連会社の責任者が自部門の経営実績を発表する「業績報告会」を毎月開催することにした。
責任者が自部門の経営のどこに問題があるのかを見極め、改善策を実施するようにしたことにより、各部門の採算は向上していった。また、社員のコストに対する意識も高まり、全社員が採算改善に主体的に取り組むようになり、収益性の向上に大きく寄与した。
社員が共有すべき明確な経営哲学を「JALフィロソフィ」としてまとめ、それをベースに社内の意識改革を進めるとともに、アメーバ経営を導入し採算性向上に取り組んだことにより、業績、財務体質は急速に改善された。
日本航空は世界の大手航空会社の中でも最も収益性の高い航空会社に生まれ変わり、2012年9月19日には上場廃止から2年7カ月という史上最短の期間で株式の再上場を果たしたのである。
右のグラフは、稲盛就任前後の業績を表す。就任前の売上は、約1兆5,000億円、営業利益はマイナス1,337億円の巨額赤字を計上した。翌年には売上1兆3,622億円に減少したものの、営業利益は1,884億円とV字回復を果たした。さらに翌年は売上1兆2,048億円、営業利益は2,049億円で17%の利益率となり、高収益の航空会社に生まれ変わることができた。

アメーバ経営/京セラ会計学
アメーバ経営
アメーバ経営とは稲盛が京セラを経営していくなかで、その経営理念を実現していくために創り出した経営管理システムである。
組織を小集団に分け、市場に直結した独立採算制により運営し、経営者意識を持ったリーダーを社内に育成し、全従業員が経営に参画する「全員参加経営」を実現する経営システムである。
アメーバ経営にはフィロソフィが欠かせない
アメーバ経営は、世間でもてはやされているような、経営ノウハウではない。アメーバ経営はやり方を真似しても、うまく機能しない。その理由は、「経営哲学」をベースにして、会社運営に関わるあらゆる制度と深く関連する「トータルな経営管理システム」だからである。

経営者意識を持つ人材の育成
組織を「アメーバ」と呼ばれる小さな組織に分割することで、会社を中小企業の連合体のような構成にする。各アメーバの経営をリーダーに任せることで、経営者意識を持った人材を育成する。
- 大きな組織を「アメーバ」と呼ばれる小集団に分ける
- アメーバごとにリーダーを任命して、経営計画、実績管理、労務管理、資材発注等の経営全般を任せ、共同経営者としての仲間を増やす
↓
- 自ら挑戦する組織風土
- 目標を達成する風土づくり
- タイムリーかつ正確な経営判断
市場に直結した部門別採算制度の確立
会社経営の原理原則は、売上を最大にして、経費を最小にしていくことである。この原則を全社にわたって実践していくため、小さな組織「アメーバ」に分けて、市場の動きに即座に対応できる部門別採算管理を行う。
- 経営の原理原則=「売上最大、経費最小」によって利益を追求する
- アメーバを独立採算で運営するためアメーバ間で売買を発生させる
- 全社員が容易に理解できる家計簿のような採算表を作成する
↓
- より小さい単位の経営課題が明確になる
- 会社の隅々まで実態がよく見える
- 社員の採算意識が高まる
全員参加経営の実現
全従業員が、神輿を担ぐように会社の発展のために力を合わせて経営に参加し、生きがいや達成感を持って働ける「全員参加経営」を実現する。
- アメーバ単位で計画を立て、目標を共有化する
- 会社方針や目標をもとに年度計画(マスタープラン)を立てる
- マスタープランをもとに月次予定を立て、実績管理を行う
↓
- 現場の衆知が集まる
- 目標を達成することで達成感やりがいを感じる
- 職場の一体感を醸成
京セラ会計学
京セラを創業した当時、技術者出身の稲盛は、経営や会計について詳しい知識を持っていなかった。会社を始めた途端、稲盛はさまざまな経営上の問題に対して判断を求められた。何を基準にして判断すべきか、思い悩む日々が続く中、稲盛は「人間として正しいこと」をベースに判断していこうと決意した。
これは、会計の分野についても同じであった。さまざまな会計上の問題にぶつかっても、常にその本質にまでさかのぼって、「何が正しいか」をベースに問題を解決しようと考えた。こうした考え方が、一般常識にとらわれない会計の本質に基づいた「京セラ会計学」を生み出した。

会計は経営の羅針盤
会計の数値は、飛行機のコックピットにある計器盤の数値に例えることができる。パイロットが、高度や速度、方向などを示す計器盤の数字を見ながら、飛行機を操縦するように、経営者は会計数字を見ることで会社の実態を読み取りながら、経営の舵取りを行う。
もし、飛行機の"計器盤"が狂っていたら、正しく飛行することができないように、会計数字がいい加減であれば、会社は誤った方向へ進んでいくことになる。従って、会計とは、企業経営において"羅針盤"の役割を果たすものであり、「経営の中枢」と呼べるほど重要である。
京セラ会計学 7つの基本原則
京セラ会計学では、経営の実態を正しく把握し、発展へと導くために実践的な「7つの基本原則」を掲げている。
1 キャッシュベース経営の原則
「キャッシュベース経営の原則」とは、「お金の動き」に焦点をあてて、シンプルな経営を行うことである。現代の会計学では、複雑化する一方であり、経営の実態がわかりにくいものになっている。経営の実態を正しく伝えるという会計の原点に戻るなら、もっとも重要な「キャッシュ」に着目して、それをベースにして正しい経営判断を行うべきである。
2 一対一対応の原則
会社経営においては、必ずモノとお金が動く。その時、モノまたはお金と伝票が、必ず一対一の対応を保たなければならない。この原則を「一対一対応の原則」と呼んでいる。この原則を徹底することによって、毎日の伝票の数字の積み上げが、そのまま会社全体の実際の姿を映し出す数字になる。
3 筋肉質経営の原則
企業を人間の体に例えるなら、ぜい肉(ムダな資産等)のまったくない健全な「筋肉質の企業」をめざすべきである。そのことを「筋肉質経営の原則」と呼び、京セラ会計学のバックボーンと位置づけている。
4 完璧主義の原則
「完璧主義の原則」とは、妥協を許すことなく、あらゆる仕事を完璧にすることをめざすものであり、経営において実践すべき基本的な姿勢である。特に会計においては100%正しい数字が求められる。
5 ダブルチェックの原則
「ダブルチェックの原則」は、経理のみならず、あらゆる分野で、人に罪をつくらせない「保護メカニズム」の役割を果たす。伝票処理や入金処理を一人ではなく必ず複数の人間でチェックするというダブルチェックのシステムは、業務の信頼性と、会社の組織の健全性を守ることになる。
6 採算向上の原則
企業会計にとって、自社の採算向上を支えることは、もっとも重大な使命である。京セラでは、「アメーバ経営」と呼ばれる小集団独立採算制度を用いることにより、全従業員が採算の向上に貢献している。
7 ガラス張り経営の原則
経営者と社員の信頼関係を構築するためには、会社の置かれている状況を包み隠さず社員に伝えることが必要であり、経営を「透明」なものにしなければならない。経営トップだけでなく、社員にも自社の状況がよく見えるようにすることが大切である。
さらに、会社は、株主、投資家などの外部の関係者に対しても、自社の状況を正しく伝えなければならないだけに、外部に対するフェアーなディスクロージャーが不可欠となる。