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稲盛に関するエピソード ― 「生涯の心の師」から教わったこと

8月11日は、稲盛が「生涯の心の師」と仰いだ内野正夫先生の命日でした。
内野先生との出会いは、稲盛が鹿児島大学で「入来の粘土」に関する論文をまとめ、卒論として発表した時に遡ります。工学部教授であった62歳の内野先生は40歳年下の稲盛に「あなたの論文は東大生のものよりすばらしい。あなたはすばらしいエンジニアになりますよ」と言葉をかけ、若き青年に大きな期待をかけます。
さらに、稲盛が最初に勤めた松風(しょうふう)工業時代にパキスタンの碍子製造会社から誘いがあったときに内野先生に相談すると、「なけなしの技術を切り売りするようなことはやめなさい。その間にあなたの技術は使いものにならなくなっていますよ。絶対反対です」と答え、気持ちが揺れる稲盛に日本に残ってさらに技術を磨くことを促しました。そんな尊敬する内野先生に稲盛は京セラ創業後も、ことある機会に相談して指示を仰ぎました。
1973年、内野先生危篤の知らせを米国出張中に受けた稲盛は、帰国するとただちに羽田から病院に駆けつけ、恩師と最後の言葉を交わしました。このとき、技術者としても経営者としても大成した稲盛を見て、万感の思いを込めて「稲盛君、大したもんじゃ」と何度も大きな声で言われたそうです。
内野先生が稲盛に出会う前年(1953年)に刊行した著書(『寒巖禅師伝』)には、「如何なる事業を行なうにも、清浄なる願に依るときは成功せぬ理由はありません」と書かれており、事業のベースには純粋な思いがなければならないというその教えは、愛弟子の稲盛へと継承されています。

写真:内野先生/鹿児島大学時代の稲盛