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京セラの成長を支えた初の社有車「スバル360」

200625

60年前の1960年6月、初めての社有車として「スバル360」を購入しました。
1959年の創業当時、稲盛は、「移動時間が短縮できればその分余計に仕事ができる」という思いから、通勤にも営業にもスクーターを使用していました。細心の注意を払って運転をしていた稲盛でしたが、やはり雨天時には危険が伴います。そのため、スクーターを乗りつぶすほどに使用した1年後、京セラは初の社有車として、軽四輪のスバル360を購入したのです。当時の京セラにとっては、雨に濡れずに移動できるだけでも、「たいへんなぜいたくだ」と感じていたと稲盛は述懐しています。

待望の社有車。そこからスバルの活躍が始まります。
その頃、京セラではU字ケルシマに代わる部品、「マルチフォームガラス」の開発に乗り出していました。すでに欧米ではマルチフォームガラスが使われ始めていて、U字ケルシマの注文をもらっていた松下電子工業でも、近々切り替わることになっていました。競合他社も開発を始めていただけに、同社の切り替えに間に合わなければ経営が揺らぎかねないという事態だったのです。

毎晩、何十キロという原料をスバルに積んで、東大阪のガラスメーカーに持っていき実験をする。そして朝には試作品をスバルに積んで京都に持ち帰り、性能の試験を行う。そのかいあってなんとか製品が出来上がり、松下電子工業に引き続き注文をもらうことができた上に、他社への一括納入も始まりました。
こうしてスバルは、連日京都-大阪間を走ってマルチフォームガラスの完成を支え、京セラの発展に大いに寄与してくれたのです。

その後も、滋賀工場建設の下見に行くとき、アメリカからの客人を伊丹空港に迎えに行くときなど、大切な場面で移動する稲盛の両手には常にスバルのハンドルが握られていました。創業時の京セラを支えたスバルは、やがてその役目を終えますが、初の社有車について語るとき、「車」「社有車」ではなく、「スバル」と言う稲盛にとっては、単なる乗り物としての車を超えた「相棒」だったのかもしれません。そして、その姿を目にする時、苦楽を共にしてくれた相棒への愛着が湧くとともに、京セラ創業時の初心に立ち返るのかもしれません。

写真:スバル360とともに