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「あの日あのとき稲盛和夫」下村満子氏(「朝日ジャーナル」元編集長、ジャーナリスト)
かつて稲盛が主宰していた「盛和塾」の機関誌の1コーナー「あの日あの時稲盛和夫氏」を一部抜粋にてご紹介しています。
『週刊朝日』『朝日ジャーナル』の元編集長でありジャーナリストであった下村満子さんをご存知の方は、多数いらっしゃるのではないでしょうか。
下村さんと稲盛が出会ったのは今から40年ほど前、日本の各界有識者が集う「天城会議」でした。稲盛の第一印象について、それまでのイメージとは違い、「謙虚で誠実」「ひっそりと静かだが、存在感があった」と述べられています。そして「無私」「利他の心」などを説く稲盛に、「同じ考えの方がいる」と衝撃を受けられたそうです。
その後、家業の経営に携わることになり入塾された盛和塾では、心の大切さや正しいことを貫くことの大切さを学んだ他に、稲盛の経営者としての厳しさも垣間見たと言われています。
そのことを映画製作に関するエピソードとして、次のように披露されています。
好評ではあったが、(ガイアシンフォニー)「第一番」は経済的にペイラインにのっていなかった。そこで「第二番」の制作費のことで、稲盛塾長のお力をお借りできないかと龍村さん(※龍村仁監督)は考えた。龍村さんは私の親しい友人なので私も応援することにし、二人で稲盛さんにお会いした。忙しい中すでに「第一番」をご覧になっていた塾長は、いい映画であることを認め、「第二番」 の制作の支援をすることを約束してくださったが、その時こういう条件をつけた。
「よく、芸術家たちは、こんなにいい芸術的な作品なのに、大衆は(レベルが低いから)それを理解しない。だから、残念ながら、興業は赤字なんです、というようなことを言う。だが、私はそういう理屈を信じない。それはその芸術家の独りよがりなのであって、本当はその作品はいい作品ではないのだ。本当にいい作品だったら、必ず人は観る。そして長期的には必ず経済的にも成り立つはずだ。だから、もし『第二番』が最終的に赤字だったら、それはあなたの作品が悪いのだ。だから私は次(『第三番』)の支援はしない。『第二番』があなたの勝負です。」(略)
これこそ、稲盛塾長の仏心だったのだ。仏の心というのは、ただ単に優しく、甘く、ニコニコするという単純なものではない。叱ったり、突き放したり、厳しくすることもまた、大切な仏の心の一部なのだと思う。(機関誌「盛和塾」26号1998年7月発刊より)
こうして完成したガイアシンフォニー第二番では、その収入で次の作品を作るという流れが出来上がり、京セラの支援以降、現在では第九番まで製作されています。