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稲盛ゆかりの地を巡る 「鴨東荘」後編
昭和40年頃 右手端のモルタルの白壁が鴨東荘
稲盛ゆかりの地を巡る-今日は前回に続き、京セラ創業時に社員たちが生活していたアパート「鴨東荘(おうとうそう)」について、当時の住人たちの生活をご紹介します。
松風工業を退職した稲盛とその部下たちは、昭和39年に京都市の洛北、左京区田中東高原町にあった鴨東荘に移り住みました。新婚の稲盛が一部屋、そして他の創業メンバー3人で一部屋。同じ六畳一間のアパートに暮らしていました。創業時のメンバーは当時を振り返って、皆が寸暇を惜しんで一生懸命に働いて次第に帰りが遅くなり、鴨東荘には終電で帰っていたと、語っています。
「昼食は各自で食べていましたが、夜の鴨東荘での食事は遅くなるからというので順番で準備をしました。みんな料理をしたこともない独身男性で、包丁も握ったこともありませんでした。そのため、ご飯を炊いて、近くで売っているコロッケのような惣菜を買ってきて、皿に並べるだけの簡単な食事でした。それを一週間交替でやっていました」
(機関誌[盛和塾]139号 「あの日あの時 稲盛和夫氏」伊藤謙介編より)
この共同生活の中で、稲盛と創業メンバーたちのベクトルが揃い、京セラが大切にしている心を通わせ、団結して取り組む文化、いわゆる「大家族主義」が育まれていったのでした。そして、それはちょうど稲盛が京セラの創業時に思い描いた会社のありかたそのものでもあったのです。
「私は京セラをつくったとき、従業員と私は家族のような関係でありたいと思っていました。例えば私が育った鹿児島には両親がいて、私は七人兄弟でしたが、その家族のような関係です。また、私は結婚してすぐに会社をつくりましたので、新しくできた自分の家族と同じぐらいの関係でありたい。従業員とそこまでの関係でなければ、本当の意味での強い会社にはならないのだろうと、まずそう思いました。経営のケの字も知らなかった私ですが、どうもそこに経営の原点がありそうだと思ったのです」
『経営のこころ-会社を伸ばすリーダーシップ-』より
「鴨東荘」は大家族主義の原点ともいえる場所だったのです。
昭和47年頃 左側に鴨東荘の西隅が映っている
鴨東荘の一室で食事をとる京セラ創業メンバーたち