Facebookアーカイブ
稲盛和夫の生涯⑫ カソードチューブの開発(1959年)
京セラ創業時の製品、U字ケルシマは安定した受注はあったものの、テレビ需要の急成長が終われば頭打ちになるのは明白でした。そのため稲盛は先頭に立って営業活動を行っていました。
当時、テレビや洗濯機などに使う電子工業用部品の多くは、欧米からの輸入品でした。電機・電子部品メーカーへ売り込みに行くと、逆に「こんなもの(部品)はつくれるか」と尋ねられることも多く、そのほとんどが日本ではつくられていない製品でした。それを稲盛は即座に「できます」と引き受け、チャレンジし続けました。他社ができないものをやり遂げることが、まだ創業したばかりの京セラが信用を得る唯一の道だったからです。そこには、「外国でつくれるものは必ず京セラでつくれるはずだ」という信念と燃える闘志がありました。
ファインセラミックスに無限の可能性を感じていた稲盛は、「たとえ今市場が存在していなくても、いつか必ず必要とされるはずだ」と社員を励まし、どんな難しい注文でも取って、セラミックスの用途や可能性を広げていきました。その一つが1959年5月に松下電子工業から受注したブラウン管部品のカソードチューブでした。
材料から成形、焼成、加工まで全てを独自に開発しなければならず、しかもアルミナを原料とする製品は、京セラにとって初めてという難しい製品でした。それでももちろん「できません」とは言いません。フィリップス社の見本を手に開発に取り組みました。
製造で一番困難だったのは、極薄のチューブのカットでした。中空のカソードチューブは、焼成前に刃を当てるとつぶれ、焼成後では割れてしまいます。稲盛以下担当者は額(ひたい)を寄せ合って試行錯誤を繰り返し、焼き上がったカソードチューブの中に溶かした液状のワックス(蠟:ろう)を流し込んで冷却し、固化したワックスが空洞部に充填されている状態でカットするという方法を編み出しました。切断した後に温めてワックスを溶かせば、製品ができ上がるのです。
この切断法がさまざまな部品の加工にも用いられ、実用新案にも登録されました。そして完成したカソードチューブは、創業当初の業績に貢献するとともに、松下電子工業からは「フィリップス社の製品より良い」という言葉までいただいたのです。