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稲盛ゆかりの地を巡る-「サンディエゴのピザレストラン『フィリッピス』」

稲盛ゆかりの地を巡る。先日(2023/11/16)、職場で部下たちにピザをふるまう稲盛のエピソードをご紹介しましたが、今回は1970年代、アメリカのサンディエゴに京セラの工場ができた頃、ここでも現地従業員にピザをふるまったエピソードより、現在でも人気のピザレストランを紹介します。
当時、サンディエゴの工場では、カリフォルニアの半導体メーカーに納めるセラミックパッケージを製造していました。そこでは多くの従業員が働いていました。現場を率いるのは日本から派遣されたリーダー長谷川桂佑と4人の技術者、白井清英、河村幾之助、川口孝、加藤勝啓のわずか5名で、言葉や文化の隔たりにたいへんな苦戦をしていました。稲盛は、そんな彼らのために繰り返し渡米して、現地従業員との溝を埋めていきました。当時の様子を稲盛は次のように述べています。
工場が動き出した最初の頃は、みんながんばってくれるのですが、なかなか利益が出ませんし、言葉や人種の問題もあって、先兵として送り込んだリーダーたちはたいへんな苦労をしていました。その彼らを私は、一カ月に一度渡米して、一緒に食事をつくり、一緒に食べながら励ましていたのですが、そのうちにこんなことがありました。アメリカ人の女性従業員たちが「オーナーの稲盛さんがいらっしゃるのだから、朝ご飯のときにつくったおかずをみんなで持ち寄って、稲盛さんに食べてもらおう」という相談をしたのだそうです。(中略)
私が食堂に入ると、みんなが拍手をしてくれて、「どうぞ。どれでも好きに取って食べてください」と言ってくれます。私はたくさん並んでいるおかずの中から、美味しそうなものを頂戴していき、みんなと一緒に食べました。私の方もそうしたやさしい社員たちのために、ピザをたくさん買っていき、「私の差し入れですよ」と食堂のテーブルに並べました。(中略)
これがたいへん楽しい会になっていきました。女性従業員たちと食堂で、または中庭にあるベンチに座り、みんなと笑いながら、しゃべりながら食事をともにする。すばらしいコミュニケーションができていましたし、このことが社員たちの信頼を得られる元にもなっていったのです。(2012年10月2日 盛和塾ロサンゼルス交流勉強会でのコメントより 機関誌[盛和塾]117号掲載)
当時、頻繁にサンディエゴを訪れた稲盛は、週末のランチも京セラの工場からほど近いピザレストラン「フィリッピス(現在の名称はFilippi's Pizza Grotto & Bar)」のKearny Mesa店を利用していました。このレストランは、現在も建屋をリニューアルして地元の人気店として活況を呈しています。

写真
1枚目:当時のピザレストランの外観 (1970年代)
現在も「Filippi's Pizza Grotto Kearny Mesa & Bar」として営業中https://realcheesepizza.com/kearny-mesa
2枚目:アメリカ現地法人のゲストハウス開設パーティーでの稲盛(右から2人目/1971年)