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稲盛和夫の生涯⑯「初の自社工場が滋賀県蒲生町に完成」
1959年の創業から1年後、京セラは順調に受注が増え、人員や設備の増強とともに、早くも工場の拡張を迫られるようになっていました。しかし、新しい工場を建てるには、まだ会社としての体力が十分ではありません。隣接していた宮木電機製作所の講堂兼食堂を2階建てに改築してもらい、その1階をコンクリート打ちにして、京セラが使わせてもらうことにしました。
1959年の創業から1年後、京セラは順調に受注が増え、人員や設備の増強とともに、早くも工場の拡張を迫られるようになっていました。しかし、新しい工場を建てるには、まだ会社としての体力が十分ではありません。隣接していた宮木電機製作所の講堂兼食堂を2階建てに改築してもらい、その1階をコンクリート打ちにして、京セラが使わせてもらうことにしました。
しかし、業績の伸びとともに、またすぐに手狭になり、工場用地を探すこととなりました。京都や兵庫、滋賀にて探した末に、滋賀県蒲生町で立地、費用ともに条件を満たした土地が見つかり、1962年10月に7,800坪(25,740平方メートル)を購入。このときには西ノ京原町の工場はもはや満杯の状態となり、早急な工場建設が必要となっていました。そして電力の確保、工場用水に使う地下水脈も掘り当てるなどして、1963年5月に待望の自社工場である滋賀工場第1工場と独身寮が竣工したのです。
この滋賀工場建設にあたっては、ひとつのエピソードがあります。西ノ京原町で社員が昼休みにキャッチボールをしていたところ、向かいのたばこ屋の土間にボールがぶつかり、上から漆喰が落ちて、奥さんがつくっていたみそ汁の鍋に入るということがありました。驚いて飛び出してきた奥さんに稲盛は何度も頭を下げてお詫びし、そして社員たちには「一生懸命仕事をして、いまに運動場をつくってやる」と言いました。お世辞にも立派とはいえない仕事場で働いていた誰もが「そんなばかな」と思っていましたが、その言葉通り、滋賀工場には約束のグラウンドはもちろんのこと、プールまでつくられたのです。
次回は、この滋賀工場にかける思いについてご紹介します。


写真
1枚目:滋賀工場第1工場
2枚目:滋賀工場につくられたグラウンド
3枚目:プール開きのようす(1969年)