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寄稿⑰「松下幸之助さんを悼む」(『人間 松下幸之助の世界』1989年8月)
稲盛の初の著書『心を高める、経営を伸ばす』(1989年5月刊、PHP研究所)の発刊にあたり、松下幸之助さんが推薦文を寄せてくださいました。その中で「日頃すぐれた経営者のお一人として敬意を表している稲盛さんがさまざまな体験の中から自ら感得された人生観、経営観をこのたび一冊の本にまとめられた。全編を通じ、"人間に与えられた無限の能力を信じ、その能力を存分に発揮して充実した人生を味わおう"と訴えかけておられるが、その情熱と信念には心打たれるものがあった」と述べておられ、稲盛もたいへん喜んでいました。
残念ながら、松下さんは書籍発売直前に逝去され、生前最後の推薦文となりましたが、稲盛は同年8月に刊行された『人間 松下幸之助の世界』(読売新聞社)への寄稿「松下幸之助さんを悼む」において、次のように想いを綴っています。
松下さんがおられなかったら、戦後の日本の姿は、今日とはずいぶん異なったものになっていたに違いありません。松下さんは、それほど敗戦の焦土の中から見事に復興をとげて世界第二の経済大国となった日本の歩みをご自身の上に体現してこられた方でした。今日の多くの経営者の方々がそうであるように、私も松下さんから幾多の教えを頂き、また、ご支援も頂きました。実際、松下さんとの節目節目での触れ合いが今日の京セラをつくる重要なきっかけにつながっていることを思いかえしては、本当に稀有な指導者を失ったものと、改めて痛恨の念に堪えません。
(中略)松下さんは、ダムをつくって常に一定の水量を保つような、余裕のある経営をやるべきだというダム式経営の考えを話されました。講演のあと、一人の聴講者が立って、「私も経営者の一人として、余裕をもたねばならないという考えはたいへんもっともだと思う。しかし、私どもの企業は、今、現に余裕がない。その余裕をつくり出すためには、いったいどうしたらいいかを教えてほしい」と質問されました。
まさに聞きたいところで、一同、思わず身をのり出して、松下さんの答えを待ちました。すると松下さんはにっこりとして「そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけれども、まず、余裕がなけりゃいかんと思わないけませんな」とおっしゃいました。皆は一瞬失望して「全然回答になっていない」と声に出して言う人もおり、会場はざわめきました。しかし私はそのとき、鉄槌で打たれたように非常な感銘を受け、これだと思いました。
松下さんは「こうありたいと思わなかったら、絶対そうはならない。まず、思うことが大切で、理想を持ちながらも、それは理想にすぎず、現実にはむずかしいという気持ちが心の中にあっては、ものごとの成就が妨げられる」ということをおっしゃったのだと私は思いました。以来、私は、「こうありたい」と強く思うことがすべてのスタートになるということを経営理念のべースにおき、若い人々にも松下さんのお話を繰り返し説き続けています。