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稲盛和夫の生涯㉔ ソーラーエネルギー事業への進出   

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1970年代に入ると、稲盛の挑戦は、エネルギー分野へと広がりました。化石燃料への依存に警鐘を鳴らし、太陽光発電の可能性をいち早く見据えた稲盛は、その事業化と発展に取り組みました。

そのきっかけとなったのは1973年の第一次オイルショックでした。

オイルショックは、化石燃料に依存する社会の危うさを人々に知らしめました。この状況を目の当たりにした稲盛は、化石燃料が枯渇することへの強い危機感と、「代替となる地球にやさしい再生可能なエネルギーを生み出したい」という使命感を抱きました。そして、京セラで培ってきた結晶技術が太陽電池に応用できると考え、この分野への進出を決断したのです。

当初、大手電機メーカーと合弁で「ジャパン・ソーラー・エナジー株式会社(JSEC)」を設立し、太陽電池の製造技術であるEFG法(シリコンリボン結晶を効率的に育成するための技術)を導入しました。しかし生産性は低く、製造コストはなかなか下がりません。

やがてオイルショックの影響が薄れ石油が安定供給されるようになると、太陽電池への社会的関心は急速に衰え、JSECの業績は低迷、他社が撤退する困難に直面しました。それでも稲盛の「地球環境の保全と世の人々の生活を豊かにすることを両立させる」という信念から、京セラが全株を買い取り、単独で研究を継続させました。

開発に苦戦する中、ドイツ・ワッカー社から多結晶シリコンを使った製造法の提案がありました。さらに、若い研究員が実験を重ねる中で、多結晶の有用性を発見しました。

稲盛は即座に「これだ」とひらめき、多結晶シリコンの量産へと舵を切りました。大きな投資をしたEFG法の装置を捨てるという、常識では考えられないような決断でしたが、このことが世界の太陽電池市場を多結晶へと大きく転換させ、拡大するきっかけとなったのです。

こうして技術開発は着実に進展し、当時はまだ珍しかった太陽光発電の実用化に向けた具体的な取り組みが始まりました。「ない市場ならつくるしかない」と、太陽電池を組み込んだ街灯や道路標識など多種多様な応用商品を開発・発売し、市場と用途の拡大に果敢に挑みました。

さらに、業界団体である太陽光発電懇話会(JPEA)の設立をはじめ、世界最高水準の結晶シリコン系太陽電池セルの開発や住宅用太陽光発電システムの販売など、業界全体の発展にも尽力しました。こうした先駆的な取り組みは、太陽光発電の普及を大きく後押しし、京セラが世界のソーラーエネルギー産業を牽引する存在へと成長する礎となりました。

写真
1:太陽電池セル 
2:業界団体 太陽光発電懇話会(JPEA)を設立(1987年4月)

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