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工場操業のエピソード「水害に見舞われた鹿児島工場の船出」
1969年7月、滋賀工場(現滋賀東近江工場)に次ぐ2番目の工場である鹿児島工場(現鹿児島川内工場)が開業しました。
工場では7月2日に、鹿児島県や川内市の関係者、地元の方々などを招待して竣工式を開催する予定で準備を進めていました。しかし、梅雨の大雨で、6月30日から川内川や工場前の高城川など、市内の主要河川が相次いで氾濫。工場内でも各所に浸水被害が発生したことから、式は延期を余儀なくされ、最終的に7月19日に開催されました。
この時の水害は、家屋全半壊・流失が283戸、死者行方不明者が52名、床上浸水5,874戸、床下浸水7,448戸に及ぶ大きなものでした。
竣工式に出席するため、鹿児島市内から工場へ向かっていた稲盛でしたが、このときは氾濫した川内川に架かる橋がすべて通行止めとなり、工場のある対岸へ渡ることができませんでした。そこで、唯一「渡ることができる」と教えられた国鉄(現JR)の鉄橋を歩いて渡り、現地にたどり着くと、復旧に当たる社員を励ますとともに、自らも復旧活動に参加したのでした。
鉄橋を渡るとき、足下の枕木の隙間からは濁流となった川内川が渦巻く様子が見えるほど危険な状況でした。途中稲盛は、自らと同じように何としてでも工場へ向かおうと鉄橋を渡る鹿児島工場の女性社員と出会います。そしてその姿に「こういう従業員がいてくれる限り、この工場はきっと立派な工場になる」と確信したと、後年この時のことを振り返って語っています。
水害に見舞われるという波乱のスタートを切った鹿児島工場は、その後、半導体用セラミック多層パッケージの主力工場として京セラ急成長を支えました。また稲盛は、この水害に際し、鹿児島県と川内市に復旧のための多額の寄付を行うとともに、被災した社員にも見舞金を贈り、生活再建を支援しています。