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試練を乗り越えて発展した鹿児島国分工場のスタート
1972(昭和47)年10月1日、鹿児島国分工場(現・鹿児島霧島工場国分ブロック)は、滋賀蒲生工場、鹿児島川内工場に続く、京セラ3番目の工場として産声を上げました。
同年4月に開業した鹿児島空港から車で約30分という好立地を生かし、鹿児島県が空港開業を機に企業誘致を図るために造成した工業団地の1区画を購入。そして工場建屋2棟と社員寮、社宅を建設し、表示管用の多桁セラミック基板(表示プレート)やセラミックコンデンサ、ハイブリッドIC用厚膜基板などの電子部品群の生産を開始しました。その後、県からの要請を受けてさらに3区画追加取得し、工業団地全4区画を保有することとなりました。
それまで川内市内にあった工場は「鹿児島工場」と呼ばれていましたが、県内に二つ目の工場が誕生したことを機に、工場名を県名と立地する市町村名を組み合わせた名称に統一しました。これにより、従来の鹿児島工場は鹿児島川内工場、国分市の工場は鹿児島国分工場、滋賀工場は滋賀蒲生工場となりました。
国分工場の開業時は、日本の電卓産業が最盛期を迎えており、その表示管に使用される多桁セラミック基板の受注が急増していました。生産ラインをフル稼働しても追いつかない状況が続き、ぎりぎりまで生産した製品を、鹿児島空港発の最終伊丹便や羽田便に間に合うよう出荷し、両空港でそれを受け取った営業担当者が夜を徹して客先工場へ届けるという日々が続きました。それが可能だったのも、空港に近いという国分工場の立地条件の良さがあったからでした。
表示管用多桁セラミック基板は、最盛期には京セラの月産売上高の1/3を占めるまでに急成長しました。しかし、電卓メーカーの乱立により価格競争が始まると、表示管用の基板はセラミックよりも安価なガラスに次第に置き換えられていきました。その結果、工場の開業から4年後の1976年9月には、受注がほぼゼロになる事態となってしまったのです。
このことから稲盛は、いかに好調な事業であっても、一つの事業に過度に依存することの危うさを痛感しました。そして、柱となる複数の事業を常に持つことの重要性を再認識し、事業の多角化を本格的に推進していく決意を固めたのでした。
一方、主力製品を失った国分工場は、新たな成長の道を模索することとなります。
1980年以降に簡易型の半導体用セラミックパッケージであるサーディップ事業が成長し、工場はふたたび軌道に乗り、現在では京セラグループで国内最大規模を誇るまでになりました。
揺籃期にはさまざまな試練や環境の変化がありました。それらを乗り越えて今日に至った鹿児島霧島工場国分ブロック。この歩みはまさに「艱難汝を玉にす」であったといえるでしょう。
写真
1枚目:開設当初の鹿児島国分工場
2枚目:現在の鹿児島霧島工場国分ブロック中心部