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稲盛の母キミについて ―母の日にちなんで―

190514

稲盛の母キミは、18歳という若さで稲盛家に嫁入りし、夫の世話のみならず、まだ幼い義理の弟3人の面倒までみることになりました。働き者であったキミは、愚痴ひとつこぼさず、四男三女、7人もの子どもを育て上げたばかりか、家業の印刷業を切り回すなど、戦前戦後の稲盛家を支え続けました。そんな苦労を重ねた母キミでしたが、稲盛の兄弟7人は皆、あふれるような愛情を受けて育ち、まさにキミは「太陽」のような存在であったといいます。
そんな母について、稲盛は著書『ごてやん』で、このように語っています。

「私は子どもの頃から本当に母親のことが好きだったのだと思う。母は、言葉では表現できないくらい大きな愛情で私を包み込んでくれていた」

苦労を重ねながら、惜しみない愛情を注いでくれた母親に、できる限りの恩返しをしたい。そう願っていた稲盛は、出張などで鹿児島へ立ち寄ると、キミが大好きだったパチンコ屋によく連れて行ってあげたようです。また、そんな時間もとれないときは、パチンコ代をそっと母のポケットに差し入れたといいます。
平成4年(1992)2月、大好きだった母キミが亡くなりました。残念ながら、稲盛は海外出張中で看取ることはかないませんでした。

その2年後の平成6年(1994)10月、稲盛は母校鹿児島大学に、「稲盛会館」を寄贈しました。安藤忠雄氏設計で地上3階、地下1階の卵形が特徴のホールに、稲盛は万感の思いを込めて、母の名を冠しました。「キミ&ケサ・メモリアルホール」は今も、母校のキャンパスで、稲盛の後輩たちを、あふれんばかりの愛情で包み込んでいます。
※写真:母キミと父畩市(けさいち)