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リーダーのあるべき姿

6月25日の投稿にて、60年前に京セラが初の社有車としてスバル360を購入したエピソードをご紹介しました。稲盛は、雨に濡れずに移動できるだけでも、「たいへんなぜいたくだ」と思い、「会社がいかに大きくなろうと、スバル以上の車には乗らない」と社内で宣言していました。ところが、京セラが上場した1971年、稲盛は突然「センチュリー(トヨタ)、大いに結構」と言い出したのです。
「君子豹変」とも言われた発言でしたが、その裏には社長としてのあるべき姿について思い至る出来事がありました。そのエピソードをご紹介します。
稲盛は私生活でも、「ぜいたくはならない」ということを旨としていました。どちらかというと服装には無頓着。京セラが上場した1971年当時でも、勧められて仕方なく背広を仕立てるものの、上質の布地を選ぶことはありませんでした。
そんな稲盛を見かねた会長の青山政次は、少し「とぼけた」口ぶりで、稲盛にこう話します。
「あんた、布地はいらんと言うたそうやけど、そう言わんと背広を作ったらどうや。あんたがそういうことをせん人だということはよーく分かっとるんや。けどな、上場してここまで来て、社長であるあんたがみっともない恰好しとったんじゃ、あんた個人はそれで済むかもしれんが、会社の体面というのもあるし社員も困ると思うよ。立派な恰好するなんていうことはあんたの主義主張とは違うかもしれないが、そこは曲げて良い背広を着なあかんのと違うか」(加藤勝美著『ある少年の夢』)
この言葉で稲盛は、社長には会社を代表する公人としての役割があることを認識します。そしてその時の言葉が「センチュリー大いに結構、本年はカラーシャツも着て、ズボンのしわをのばしてひげもそる」というものでした。
それまで稲盛は、先頭に立って現場に入り、従業員たちを引っ張ってきました。ですから、どんな苦労にも耐えてついてきた従業員からすると、稲盛の突然の豹変は、「上場をして恰好を付けている。我々とはもう話が合わない」と思われかねないことでした。
しかし、「ただ真面目にがむしゃらに働くだけではダメだ。相応のものを身に付けて付き合いをすることと、作業服を着て工場へ入るという両方が必要だ」と強く感じた稲盛は、創業の精神を意識した上で変化をしていくことを決意しました。
この頃、稲盛が幹部に説くことは、「リーダーとしての心構えの変革」が主題となっていましたが、それは社長として一方的に要求したものではなく、稲盛自身もまた、トップとしてのありようの変革を自らに課していたのです。そして、会社を代表する公人として相応の身なりをするからには、今まで以上に人格を磨き、謙虚な心で自らを律していくことが求められると、誰よりも自覚していたのも稲盛本人でした。
写真:1978年 米国でのクレサンベール直営店開店では、白いタキシードを着て皆を驚かせた稲盛