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稲盛和夫と焼酎

211101

11月1日は焼酎の日。稲盛と焼酎と言えば、鹿児島出身だけに幼少の頃から身近だったと思いますが、文献によれば、13歳にさかのぼります。幼くして飲酒?いえいえ"密造"です。

1945年8月の鹿児島空襲で実家が焼け、家業の印刷業もできなくなり、戦後稲盛家は困窮しました。そのため、疎開先の床下を掘り、焼酎製造を始めました。生きるためのやむを得ない策であったのですが、つくったのは本格焼酎。
著書『ガキの自叙伝』、また『君の思いは必ず実現する』によれば、麹仕入れは稲盛が担当、宮崎県都城市の麹屋で米麹を買い付け、腹に巻いて持ち帰りました。サツマイモをふかし、つぶしたところにその麹を混ぜ込み、壺に密閉して、しばらく置きます。すると発酵してブドウ糖になり、アルコールに転化するわけです。
そして、頃合いを見て手製の装置で蒸溜をします。稲盛は、わざわざ比重計を買ってきて、アルコール濃度を正確に計り、清く正しい焼酎を製品化しました。稲盛家の焼酎は、水のような焼酎がはびこる当時では、品質良好ゆえに評判が高かったといいます。

販売も稲盛が活躍しました。水枕に焼酎を入れ、肩に振り分け、市場に持ち込みました。おもしろいように売れ、随分家計を助けたそうです。いくらでも売れたので、夜を徹して製造に励んだそうですが、近所周辺に芋焼酎特有の臭いが漂い始め、このままでは危ういと、やむなく焼酎事業から撤退したといいます。

焼酎は、戦後の稲盛家の家計を支え、中学時代の稲盛の成長の糧(?)となったのみならず、後に起業した京セラでは、「全員参加経営」をもたらすエナジードリンクとなりました。盛和塾で焼酎醸造を生業とする塾生が割拠し、その生産量を合算すれば、何と日本の焼酎生産量の6割を占めていたことも知る人ぞ知る話です。

写真:焼酎で乾杯をする稲盛(2014.4.16 盛和塾全国世話人会にて)