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カメラマンが見た稲盛和夫 写真家 太田 順一
1991年も終わりに近づいた12月、私は雑誌『アエラ』(朝日新聞社)の取材撮影で京都を訪れました。取材の相手は京セラ会長の稲盛和夫さん。京都賞の創設や第二電電設立など、お名前を新聞・雑誌で見かけることも多く、「関西の地にあって日本経済のみならず、文化をけん引している人」というイメージがありました。稲盛さんにお会いするのはこの時が初めてでした。
稲盛さんは〝時の人〞らしい華やかさをまといつつ、ざっくばらんで朗らかな笑いをもって私たちに応対してくださいました。当時稲盛さんは還暦近く、私は40歳を過ぎた頃。何か自分に近いものを覚え、失礼を顧みずに言うと「親戚のおじさん」に近い感じだったように思います。それほどに〝時代の寵児〞によく見受けられる尊大さはまったくありませんでした。
インタビューでは、稲盛さんは記者の質問に答えながらも、自分自身と対話をしているかのような面持ちで話をされていました。終了後、私は「仕事をされているところを撮らせていただけませんか」と予定になかったお願いをしました。突然の求めにもかかわらず快く会議の場に招き入れてくださいましたが、そこでもうひとつの「顔」を見ることとなりました。
会議が始まるやいなや、稲盛さんは書類を片手に、居並ぶ幹部社員たちを激しく問いただし始めたのです。企業経営者としては当然のことだったのかもしれませんが、つい先ほどまで記者と私に見せておられた柔和な笑顔からは想像もできない厳しい表情でした。
京都の料亭で行われた盛和塾の勉強会では、また別の「顔」をされていました。盛和塾はよくあるセミナーとは明らかに違い、実利的というよりも何か精神的なものを求めているような雰囲気がありました。塾生の皆さんが座敷にあぐらをかいて座り、前のめりになって真剣な表情で耳を傾けている。そのひたむきさに、私は撮影で動き回ることも憚られるほどでした。
撮影を通して私は、いくつもの稲盛さんの「顔」を垣間見ました。それだけ当時担われていた役割が多かったのでしょう。その厳しさから京セラで「日本刀」のようだと表現されることもあったらしいです。切れ味の鋭さからすれば、そうだったかもしれません。でも私の印象では「木刀」のようでした。
決して人を切らず、相手に稽古をつけて鍛えてくれるという意味での木刀。日本刀の鋭利な冷たさではなく、ふっくらとした木の温かみがある――稲盛さんはまさにそんな感じであったと今も覚えています。
写真
1枚目:会議を終えるとすぐに東京へ
(雑誌『アエラ』1992年5月26日号「現代の肖像」の表紙となった写真)
2枚目:取材中、自らに語りかけるかのように話される
3枚目:京セラでの仕事風景
4枚目:盛和塾の勉強会にて(1991年12月5日)