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稲盛ゆかりの地を巡る-「甲突川と城山」鹿児島市

稲盛ゆかりの地を巡る。今回は少年稲盛和夫を育んだ鹿児島市の甲突川と城山です。
鹿児島市の市街地を南北に分けながら錦江湾に注ぐ二級河川甲突川の流れと、西南戦争終焉の地としても有名な城山の景観は、市民にとっておなじみの風景となっています。
1930年代当時、そこは今よりも豊かな自然が残っており、稲盛たちわんぱく少年にとって格好の遊び場となっていました。稲盛はそんな少年時代の思い出を、出身の小学校創立110周年の『記念誌』の中で、次のように述懐しています。
「家の近くの甲突川には、当時、魚がいっぱい泳いでいて、ハエ、フナ、コイ、エビ、ウナギ、力ニと、沢山の獲物が、毎日のように私たちを呼んでいました。学校から帰ると、宿題はそっちのけで、勉強道具は縁側に放り投げて、川へ走っていったものでした。魚たちの誘惑や、当時家の回りに沢山いた悪童連中との遊びで、小学一年のときは上の方だった成績も、六年を卒業する時は、中位になっていました。しかし、あの楽しかった少年時代、遊びも、友だちといっしょにいろいろと工夫したことが、社会人となって、多くの人を動かし指導する立場となった今日、いろいろな面で生きていると思っています。
(中略)
甲突川の魚とりと並んで楽しかったのは、めじろとりでした。冬になると、近くの山に行き、おとりの入った籠と熟した柿、それにトリモチを持って、朝早くからめじろを追いかけたものでした。おとりの入った籠の横に、トリモチを塗った小枝を置き、それに止まっためじろをとる時のあの逸(はや)る気持、今思い出しても胸が高鳴ってきます。
夏は甲突川で魚とり、冬は近くの山でめじろとりと、鹿児島の素朴な自然の中で、無邪気に戯れていた小学校時代の思い出が、目を閉じると走馬灯のように浮かんできます」
写真
1枚目:現在の甲突川(昭和橋付近)その奥手には城山が見える。
2枚目:幼少時代兄と共に(左:稲盛)