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稲盛ゆかりの地を巡る-「羽田空港(東京国際空港)」

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稲盛ゆかりの地を巡る。今回は、稲盛が大志を抱きアメリカへと旅立っていった空の玄関口 羽田空港(旧東京国際空港)です。

常々京セラの技術と製品で世界へ打って出たいと強く望んでいた稲盛は、京セラ創業から3年目の1962年、常務取締役となった最初の大仕事として米国市場への販路開拓の任を担いました。海外渡航が自由化されていなかった昭和37年、出発前にはパスポートやビザだけでなくさまざまな証明書の手続きが必要とされ、渡航費も当時の価格で100万円は下らない(京セラの月間売上の約10分の1)という状況での出張でした。

19627月、米国に向かって日本を発つことになったが、何分私は初めての海外渡航であり、英会話どころか、洋式便所の使い方さえも知らない。そこで、千葉県松戸にある知人の公団住宅に洋式便所があると聞いて、わざわざ出かけ実際に体験をしたくらいであった。

当時は1ドル=360円の時代でもあり、一人の人間が米国に出張する旅費だけでもかなりの額になり、創業したばかりの京セラには大きな負担であった。そのため「何としても米国市場を開拓しなければならない」という悲壮な覚悟で旅立つことになった。その決意を社員に披露したら、みんなにもその思いが伝わったのか、あるいはようやく社員を海外出張に送り出すまでに会社が成長したということが嬉しいのか、幹部数名がわざわざ京都から東海道線の夜行に乗って、羽田空港まで見送りに駆けつけてくれた。仕事を終え工場から直接来てくれたらしく、作業着のまま、降り出した雨にもかかわらず、手を振りながら機中の私を見送ってくれた。

私は、飛行機が飛び立ってしばらく、社員の心遣いを嬉しく感じ、機中で感慨に浸っていた。しかし、私に対する社員の期待を考えると、いつまでも感涙にむせんでいることはできない。私はニューヨークに着くと早速客先回りを開始した」 『新版・敬天愛人 ゼロからの挑戦』PHP研究所刊 より

自伝や評伝の記述では、羽田からニューヨークをあっという間に移動してしまいますが、実際その道のりはとても長く、羽田-サンフランシスコ線の日本航空JL800便で旅立った稲盛は、同日夜にホノルルを経由し、翌朝にサンフランシスコへと到着しました。さらにそこからユナイテッド航空に乗り換えて、ようやくニューヨークに降り立っています。その道中、空港内や機内においても稲盛は初めて目にする英語圏の文化、異国の光景に驚き感動し、その経験は後に京セラ従業員全員を招待した香港旅行や、京セラ子女海外研修ツアーの実現につながっていきました。

さて、次回より稲盛ゆかりの地、奮闘の「アメリカ編」が始まります。ご期待ください。

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写真
1枚目:搭乗タラップ上の稲盛(写真は1970年のもの)
2枚目:羽田空港のデッキに駆け付けた見送りの京セラ幹部たち(写真は1964年のもの)
3枚目:1960年代 羽田空港の展望デッキの様子 手前の機体が当時の使用機材DC-8(日本航空株式会社提供)