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稲盛和夫の生涯⑮「初のアメリカ出張で確信した京セラの技術力」

京セラは創業当初から、世界一を将来の目標に掲げてきました。1961年に海外貿易の糸口を求めたアプローチを開始し、1962年には極東貿易と海外販売代理店契約を締結。そして同年7月8日、稲盛が1カ月の予定でアメリカへ出張することとなりました。
アメリカ出張に際し、稲盛には一つの目標がありました。それは、京セラの製品を世界の技術先進国であるアメリカで認めてもらうことによって、日本の企業にも使ってもらえるようにしたいという「逆輸入」の考えでした。実績が重視される日本では、創業したばかりの京セラが大手企業へ売り込みに行っても、なかなか相手にはしてもらえません。そのため、当時、日本の電子工業メーカーが技術を教わっているアメリカの会社に自分たちの製品を使ってもらえれば、日本のメーカーにも認められ、採用してもらえるのではないかと考えたのです。
しかし言葉の問題から、現地では一人で営業に行くこともできず、食事をするのもままなりません。「高い渡航費をかけて海外出張に送り出してくれた上に、幹部社員は夜行列車に乗って羽田まで見送りに来てくれた。その期待に何が何でも応え、成果を上げて帰らないと皆に申し訳ない」という思いと責任感で、稲盛は胸がいっぱいでした。その思いから、毎日代理店の事務所へ誰よりも早く出かけ、面会のアポイントを少しでも多く取ってくれるよう代理店の担当者をせっつき続けていました。
毎日、製品の入った風呂敷包みを下げて、極東貿易の担当者と売りに歩くもなかなか成果が出ません。くやし涙を流しながら回った初のアメリカ出張でしたが、その中で得たものは、面会が実現したゼネラル・インスツルメンツ社やダイアモナイト社が京セラの製品を見て「ぜひ技術導入をしたい」と言ったことでした。自社流ながら必死に製品開発に取り組むうちに、いつしか世界トップ水準をいくアメリカ並みの技術力を蓄積していたのです。このことから稲盛は、「自分たちがやってきたことは間違っていなかった」と、確信と自信を深めました。
同時にアメリカという異なる文化に触れて、自分の目の前の世界が開けていくような感動を得ました。そのような経験を京セラの社員や、若く感受性豊かな少年少女にさせてあげることができたら、どれだけ人間的成長につながるだろうという思いを抱き、それが後年、香港やシンガポールへの社員旅行や、小中学生を海外に派遣する海外子女研修ツアーへとつながっていったのです。

写真:後年の海外出張でタラップから手を振る稲盛(1枚目)と見送る幹部(2枚目)