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この1枚の写真 ―人心を束ねること―

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今回ご紹介するのは、1956年、稲盛がまだ松風工業の社員であった頃のレクリエーションの写真です。

稲盛は、常にリーダーとして「人心を束ねる」という問題に腐心してきました。それは最初に就職した松風工業の現場でも頭を悩ませた問題でした。給料が遅配するような経営環境の中、皆の不平や不満が渦巻く職場では、研究にしろ、モノを作るにしろ、現場の心がひとつにならなければ、人の心がまとまっていなければどんなものでも作ることはできない、と稲盛は感じていました。

当時の稲盛はまだ2526歳。一介のサラリーマンである稲盛が給与や賞与に関して決められる立場には当然ですがありませんでした。そんな状況の中、稲盛がとった方法は「自分の部下と一緒に遊ぶ」ということでした。稲盛は当時のことを盛和塾の講演で経営者である塾生たちに次のように語ったことがありました。

「いいですか。一緒に付き合うことです。(皆さんは)付き合っておられないと思います。従業員と一緒に遊びまで付き合うなんて、していらっしゃらないはずです。大切なことは、まず一緒に遊ぶことから付き合うことです。私の場合は、野球だけではありません。不平不満がいっぱい充満している従業員、部下を連れてよくハイキングにも行きました。

当時、私の給料は本当にみすぼらしいものでしたけれど、それでも握り飯やいろんなものを作って、みんなでハイキングに行きました。そして一緒に遊びながら、お互いに気心を知り合うということをやりました。

これはサラリーマン時代です。私の上には係長も課長も部長もいるのです。その連中は何にもしないのです。まだ大学を出て2年しか経っていない私が、部下との一体感、連帯感が要るというのでやったわけです」(19953月 盛和塾大分開塾式講話より)

そう言われて改めて写真を見ると、レクリエーションを皆と一緒に楽しみながらも、心をひとつにまとめていくのだという稲盛(写真奥列左から4人目)の思いが伝わってきます。

写真:松風工業 特磁課時代の職場レクリエーション(保津川のほとりでの昼食)1956