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社員が語るエピソード 「稲盛名誉会長との思い出」特別編4

251125-1.jpg8月より「特別編」として、稲盛との最も長い接点をもつ、京セラ元会長 伊藤謙介の稲盛追悼エッセイを転載しています。
本エッセイは、20229月から12月まで月1回、京都新聞に掲載されたもので、経営者の「涙」「魂」「愛」「志」と題され、伊藤しか知り得ないエピソードが語られています。
最終回の第4回は「志」です。

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「経営者の志」 京セラ株式会社 元会長 伊藤 謙介

稲盛和夫と最後に食事をしたのは、コロナ禍の影響もあり、3年ほど前になる。稲盛が好物のステーキを、ホテルの鉄板焼きレストランでいただいた。もともと大柄な稲盛が随分痩せていたが、エネルギッシュで元気な姿に変わりはなかった。

焼酎のお湯割りをいただき、赤ワインも進んだ。小一時間ほどたった頃、稲盛は、静かに腕を組み、眼を閉じた。12分くらいだったか、いやもっと長かったようにも思えた。

おもむろに眼を開くと、「よくやったなー。奇跡だなー」と語りかけるようにつぶやき、手を合わせた。

人生をともに走った全ての人々に贈る、共感と感謝の言葉であったように思う。稲盛の心には、70年近い年月が走馬灯のごとく巡っていたに違いない。

その後、京セラ創業前に勤めていた松風工業時代の思い出話に花が咲いた。歴史のある碍子メーカーで、長岡京市に広大な神足工場があった。われわれが入社した頃は経営難に陥り、労働争議が頻発していた。

縁あって就職した私は、新しいセラミック材料を研究する稲盛の助手となった。勃興するエレクトロニクス産業向けに、新しい材料を開発、商品化することで再建を果たすべく、会社は稲盛に命運を託した。

新材料開発に成功した稲盛は、テレビ用絶縁部品の量産化に努めた。時代はまさにテレビ時代。大量注文を受け、若きリーダー稲盛を中心に組織が編成され、生産に日夜邁進した。ストを強行する組合とことあるごとに衝突したが、製品の納入は全うした。何としてもお客さまに迷惑はかけられない。稲盛はそのために全員が心を一つに団結し、果てしない努力を続けることを求めた。また、そのことを通じ、職場の仲間の生活を必死に守ろうとした。

その間稲盛は、お客さま至上主義、メーカーの供給責任、従業員の幸福追求、労働の意義など、自分たちが懸命に努めていることの意味について、机の周りに幹部社員を集め、懇々と説き続けた。青年経営者のあふれんばかりの情熱、闘志、そして考え方が一人一人に転移し、「火の玉集団」が形成された。

稲盛はその後、松風工業を退社し、京都セラミック(現京セラ)の設立に踏み出す。まだ27歳であった。

それから63年。京セラの連結売上高は2兆円が目前で、従業員は8万人を超えた。「京セラフィロソフィ」と呼ぶ、稲盛が標榜する経営哲学を実践する集団の根幹にあるのは、松風工業時代の苦闘の中で培われたものであると思う。思い返せば、その頃に全てが凝縮している。

「何か言い伝えることはありませんか?」。いまわの際、ご家族にこう問われた稲盛は「何もない」と静かに答えたという。
全力で走り切った稲盛は全てを委ねてくれた。それは透明なバトンにも似て、清らかで限りなく重い。

写真:
1:創立記念式典で、勤続50年を表彰された稲盛と伊藤
2:稲盛が指さす先には、社員からの感謝の垂れ幕が掲げてあった。

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