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携帯電話の時代を見通していた稲盛
1988年2月、稲盛は関西セルラー電話株式会社の代表取締役会長に就任しました。
この「関西セルラー電話」という社名を覚えている方は、今では少ないかもしれません。現在の「au」の前身となる携帯電話会社です。
現KDDIの前身である第二電電株式会社は、1987年の関西セルラー電話を皮切りに北海道、東北、北陸、中国、九州、沖縄に携帯電話の地域会社を設立し、携帯電話事業をスタートさせました。
当時、第二電電は設立から日が浅く、一般電話回線事業が始まったばかりでした。そこへ莫大な設備投資が必要となる携帯電話事業に踏み出すことに、社内は反対意見一色だったといいます。
それでも稲盛は、携帯電話事業に打って出ました。その根底には、「電話は近い将来パーソナルなものになる」という確信があったのではないでしょうか。
そのことを裏付ける資料として、1962年に京セラ社内で行われた講話のメモが残っています。そこには次のように書かれています。
「マイクロモジュールウエハーのような超小型部品を用い、小さな装置に組み込むことで、機器の小型化が可能になります。小型化された装置は、通信に利用できるようになります。配線が不要なため、どこへでも持ち歩くことができ、非常に便利なものとなるでしょう。
このような通信機器が発達してくると、家庭では電話に代わる連絡手段として使われるようになるでしょう。電話のようにダイヤルを回したり、設置場所まで行ったりする必要はなく、話したい相手とすぐに直接会話ができるようになります。
このような機器が次々と開発され、各家庭に普及していけば、生活は大変便利になり、新しい時代が到来するはずです。そして、そのような時代は近い将来、必ず訪れるでしょう。京セラは、こうした通信機器に使われる製品を、自社の技術によって提供していこうと考えています」(※一部編集)
1962年当時の京セラは、売上1,700万円、従業員数119人。その時代にここまでの未来像を描いていたことに、改めて驚かされます。長年あたため続けてきた将来の社会への確信があったからこそ、反対の声に怯むことなく、稲盛は携帯電話事業へと敢然と踏み出すことができたのです。
写真:関西セルラー電話の開業セレモニーで挨拶する稲盛