テラヘルツ波は社会をどう変えるのか? 実用化の現在地と産官学連携の未来
テラヘルツ波技術は、長年にわたる研究開発を経て「社会実装」のフェーズに差しかかっています。すでに一部の分野では実用化が始まりつつある一方で、本格的な普及には技術的な課題だけでなく、制度やコストといった“技術以外の壁”も存在します。本記事では、テラヘルツ波技術の「現在地」を整理したうえで、実用化を阻む課題とその解消方法、産業界・行政・研究機関がどのように連携すべきか、という観点からテラヘルツ波が社会に浸透する未来像を展望します。
(記事監修)
柏木 隆成
国立大学法人筑波大学 数理物質系 准教授
良質な単結晶育成を通じた超伝導体の理解と応用を研究テーマとし、現在は次世代超伝導量子デバイスの実現を目指して、特に高温超伝導体の結晶を用いたテラヘルツ波発振器の開発に従事する。
目次
テラヘルツ波技術の現在地とは
テラヘルツ波技術は今、「研究段階から社会実装へと移行しつつある過渡期」にあると言えます。長年、基礎研究を中心に発展してきた技術ですが、近年になってようやく、実際の現場で使われる姿が具体的に見え始めてきました。
すでに、実用化が始まっている分野もあります。たとえば、未知の成分が何であるかを突き止める、「物質同定」を目的とした分光分野では、テラヘルツ波の性質を活かし、物質ごとの吸収特性を測定する「分光器」がすでに市販されています。また、テラヘルツ帯の発振器や検出器、カメラといったデバイスも、価格はまだ高いものの、装置として流通するようになってきました。コストや装置の大きさ・検査スピード・運用方法といった点でハードルが残っているものの、こうした状況は、10年前と比べると大きな変化です。
また、短距離・大容量通信の領域では、高い周波数帯を利用できるテラヘルツ波は、短距離であれば非常に大きなデータ容量を無線で伝送できるため、特定用途において現実的な選択肢になりつつあります。すべての通信を置き換える技術ではありませんが、「テラヘルツ波が最適」と言える用途が徐々に見えてきている段階です。
一方で、すべての応用分野が同じスピードで進んでいるわけではありません。企業の立場から見ると、「技術としては魅力的だが、導入の決め手がまだ足りない」と感じられる場面も少なくありません。たとえば非破壊検査の分野では、用途が限定的で市場規模が見込みにくい、あるいはX線などの既存技術で十分対応できるといったケースが多々あります。「既存技術の一部を補完するだけ」では新たな技術の導入が進みにくいのが現実です。そのため、テラヘルツ波だからこそ解決できる課題や、明確な付加価値を示すことが求められています。技術の可能性と産業界のニーズをすり合わせながら、具体的なユースケースを育てていく局面にあると言えるでしょう。
テラヘルツ波の実用化を阻む「技術」の“壁”
テラヘルツ波技術の実用化の課題として挙げられるのは、技術的な側面です。テラヘルツ波を扱うには、「発振、検出、増幅」といった複数の構成要素(コンポーネント)が必要になりますが、用途によっては十分な出力や検出感度が求められます。たとえば、対象物の内部を詳しく調べたい場合や、測定距離をある程度確保したい場合には、より高いパワーや安定性が必要になりますが、その点は、重要な課題として現在も研究開発が続けられています。
さらに、技術以外の課題として、キラーアプリケーションの不在もあります。業界全体として、テラヘルツ波技術の可能性は共有されつつありますが、「これが決定打になる」という用途(テラヘルツ波でなければ解決できない課題)は、現時点では確立途上の段階にあります。実用化のフェーズでは、用途開拓やビジネスモデルの検討も同時に進める必要があります。
テラヘルツ波の社会実装を進めるためには?
テラヘルツ波は、材料、デバイス、回路、アプリケーションといった複数の要素技術が組み合わさり初めて価値を発揮するため、テラヘルツ波技術の普及を進めるためのブレイクスルーには単一の組織や分野だけではなく、産官学の連携が不可欠です。
技術面において大学や研究機関の役割は、まず将来の製品化・実用化の芽となる「技術シーズ」を生み出すことにあります。テラヘルツ波の発振や検出に関する新しい原理の発見、あるいは半導体や超伝導体素子といった基盤技術の開発には、長期的な視点での研究が欠かせません。実際に国内の大学を中心に、小型テラヘルツ波発振器の開発に向けた多用なアプローチが進められています。具体的には、半導体材料をベースとした量子カスケードレーザーや共鳴トンネルダイオードの開発、あるいは超伝導材料をベースとした高周波デバイスの研究など、幅広い試みがなされています。こうした基礎・応用研究の積み重ねこそが、将来の社会実装を支える土台となります。
また、社会実装面において企業に期待される役割は、これらの技術シーズを「実際にどう使うか」という視点で評価し、具体的な用途と結びつけていくことです。研究室レベルでは実現できていても、産業現場で求められる信頼性や量産性、コスト要件を満たすには、別の課題が生まれます。企業が実証実験やPoCを通じて、現場の要件をフィードバックすることで、研究開発の方向性がより磨かれていきます。
そして、行政や公的機関の役割も非常に重要です。周波数利用に関するルール整備や標準化などはこれまでも着実に進められてきましたが、テラヘルツ波のような新しい周波数帯を扱う技術を普及させるには、実証実験を後押しする制度設計が不可欠となります。また、公的プロジェクトを通じて、大学と企業が出会い、連携のきっかけを得る場が提供されることも、技術の社会実装を加速させる要因になります。
このように、テラヘルツ波技術は「大学が技術を生み、企業が実装し、行政が環境を整える」という役割分担のもとで進めていくことで、今後一層の発展が期待される技術であると言えます。
テラヘルツ波の社会実装に向け、産業界に期待されること
テラヘルツ波技術を社会に根付かせていくうえで、産業界の関わり方は極めて重要です。特に重要なのが、PoCや実証実験への関わりであり、研究段階では成立している技術も、実際の現場に持ち込むと、想定していなかった課題が数多く見えてきます。
また、テラヘルツ波技術は、短期間で明確な成果が出るテーマばかりではありません。「テラヘルツ波だからこそ成立するユースケース」を見つけるには、一定の試行錯誤が必要です。そのため、短期的な成果だけを求めるのではなく、技術を育てるという視点での関与が欠かせません。企業が早い段階で関わり、実際のニーズや課題を研究者と共有することで、実用につながる可能性が高まります。また、企業側にとっても、技術の成熟度や限界を早期に理解できるため、将来的な事業判断に役立てることができます。
さらに、テラヘルツ波技術は単一の製品や装置として完結するものではなく、周辺技術やアプリケーションと組み合わさることで、その価値を発揮します。装置メーカーだけでなく、システムインテグレーターやエンドユーザー企業も含めた幅広い関与が求められ、用途開拓の段階から産業界が参加することで、「使われる技術」としての姿がより具体的に描けるようになります。
社会実装を本格化させるためには、研究者と企業が対等な立場で議論し、共に技術を育てていく関係が必要です。産業界がテラヘルツ波技術にどう関わるかが、今後の広がりを左右する重要な鍵の一つになるでしょう。
10年後を見据えて──研究者が描くテラヘルツ波の未来
10年後のテラヘルツ波技術は、「特別な研究機器」ではなく「必要な場面で自然に使われる技術」になっているかもしれません。現在はまだ高価で扱いの難しいデバイスもありますが、今後は発振器や検出器をはじめとする関連デバイスの価格や性能のばらつきが徐々に解消され、用途に応じた選択が可能になると考えられています。現在は100万円から1,000万円規模の装置も珍しくありませんが、技術の成熟と量産化が進めば、より現実的な価格帯に近づいていくはずです。
また、通信、センシング、画像解析といった技術と組み合わさり、大容量の無線通信が当たり前になれば、データ転送のあり方そのものが変わります。PCやストレージの更新時に、大量のデータを短時間で無線転送できるようになれば、私たちの作業環境や生活の利便性は大きく向上するでしょう。大規模なデータセンターなどでは配線や取り回しといった制約から解放されることも、大きな価値として実感されるはずです。
産業の視点で見ても、テラヘルツ波は新たな可能性を秘めています。これまで見えなかったものを可視化し、非破壊で情報を取得できる技術は、品質管理や安全性の向上、リスク低減といった分野で活用が進むでしょう。重要なのは、こうした応用が一気に広がるのではなく、用途ごとに少しずつ定着していくという点です。
日本には、材料、デバイス、精密加工といった分野で培われた強みがあります。これらを活かしながら、産官学が連携して技術と用途を育てていくことができれば、テラヘルツ波技術は国内だけでなく、グローバルでも存在感を示せる分野になっていくでしょう。