日本画
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池田 遙邨1895~1988
岡山県に生まれる。本名曻一。はじめ大阪に出て松原三五郎の天彩画塾で西洋画を学んだが、のち日本画に転じて竹内栖鳳に師事した。また、京都市立絵画専門学校にも学んだ。1928年、第9回帝展出品の<雪の大阪>で特選となり、以後、帝展、新文展、日展で活躍し、機知に富む洒脱な作風を示した。句作に親しみ、晩年には漂泊の俳人種田山頭火の句や生き方に共鳴して、一連の山頭火シリーズを制作した。母校で後進を指導するとともに、画塾「青塔社」を主宰した。84年文化功労者となり、87年文化勲章を受章した。
伊藤 紫紅1935~
東京に生まれる。幼少から日本画を学ぶ。1953年中国の溥儒に師事する。57年明治大学を卒業、同年初個展を開き、その後もしばしば国内外で個展を開く。62年、27歳の若さで日本南画院評議員に推されるが、67年同画院を退会する。台湾に留学したほか、ミラノ、ローマなどにも留学して、東洋・西洋の美術の真髄に触れ、それを咀嚼した上に独自の水墨世界を開いている。
岩橋 英遠1903~1999
北海道に生まれる。本名英遠(ひでとお)。1924年上京して山内多聞の門に入り、青龍展にも出品したが、34年第21回院展に初入選、37年に院友となり、戦後は安田靫彦に師事した。院展ではしばしば受賞し、53年院同人となる。一方、58年から東京芸術大学で後進の指導にあたった。戦前から戦後にかけての超現実主義的な作風から、次第に日々の推移を超えた自然の永遠の姿を、力強い構成力で描く作風へと移り、89年文化功労者となり、94年には文化勲章を受章した。
上原 卓1926~1986
京都府に生まれる。京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校に学んだ。卒業翌年の1949年、創造美術(現・創画会)の第2回展に<幻想>を出品、以後、創造美術展、新制作協会展に出品して受賞を重ね、61年会員となった。また、63年から母校の京都市立芸術大学で教鞭をとり、76年にはイタリアでフレスコ画の模写を行った。写実に基づきながら、自然との静穏な語らいを文人的心情を通した表現を展開した。
上村 淳之1933~
京都市に生まれる。父は上村松篁。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)を卒業、のち母校で後進を指導した。1956年、新制作協会展に<水>を出品して初入選。以後同協会展、創画展で活躍している。75年にはイタリア中世絵画の研究のため渡伊、フレスコ画の模写を手がけた。81年創画会会員となる。一貫して花鳥画を描いているが、それを素材に、東洋画独自の空間の意味を追求し、象徴的な画境を示している。
上村 松篁1933~
京都市に生まれる。本名信太郎。母は美人画家上村松園。京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校に学ぶ。在学中の1921年第3回帝展に<閑庭迎秋>を出品して初入選。この頃から西山翠嶂に師事した。帝展、新文展で好成績を上げるが、48年、日展に訣別して東京の山本丘人、吉岡堅二らと「創造美術」を結成、戦後の新日本画創造運動の中核となった。同会は新制作協会日本画部を経て創画会となり、今日に至っている。一貫して花鳥画を描き、その高い理想を近代的な画面構成の内に盛り込んだ静穏な画境を示し、晩年は水墨による表現にも新境地を求めた。83年文化功労者となり、翌84年に文化勲章を受章した。
小山 硬1934~
熊本県に生まれる。はじめ油彩画を学んだが、1961年東京芸術大学日本画科を卒業し、前田青邨に師事した。同年第46回院展に<潮(二人)>で初入選、以後院展に出品を続け、79年日本美術院同人となった。この間、奨励賞、大観賞を受賞するなど好成績をおさめている。初期の潮シリーズ、60年代末からのキリシタン・シリーズなど、一つのテーマを何年も追求する。富士もそうしたテーマの一つ。68年から愛知県立芸術大学日本画科で後進の指導にあたった。
小山 硬1934~
熊本県に生まれる。はじめ油彩画を学んだが、1961年東京芸術大学日本画科を卒業し、前田青邨に師事した。同年第46回院展に<潮(二人)>で初入選、以後院展に出品を続け、79年日本美術院同人となった。この間、奨励賞、大観賞を受賞するなど好成績をおさめている。初期の潮シリーズ、60年代末からのキリシタン・シリーズなど、一つのテーマを何年も追求する。富士もそうしたテーマの一つ。68年から愛知県立芸術大学日本画科で後進の指導にあたった。
下保 昭1927~2018
富山県に生まれる。1949年西山翠嶂に入門、50年第6回日展に<港が見える>で初入選。以後めざましく頭角を現し、特選を2回受けた他、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術大賞などを受賞した。69年わずか42歳で日展評議員に推されたが、88年日展を退き、制作三昧の生活に入る。作品は墨を基調に、山水自然の雄大な呼吸を微妙な色調のうちに抽出する。中国黄山の奇観を水墨で描いたシリーズなど、日展離脱後は水墨画に新しい表現を求めている。
工藤 甲人1915~2011
青森県に生まれる。1934年上京して川端画学校日本画科に学ぶ。39年、新美術人展に<樹液>を出品して受賞、この頃から福田豊四郎の研究会に加わる。戦後は福田豊四郎の呼びかけに応じて、創造美術、新制作協会展、創画展に発表をつづけている。作風は、東北の風土に根ざした情念的なものと、西洋の文学や美術から得たさまざまなインスピレーションが混ざり合った独特の幻想味を帯び、明と暗、晴朗と晦渋が交錯する不思議な世界である。
今野 忠一1915~2006
山形県に生まれる。はじめは郷里の南画家後藤松亭に学んだが、1935年上京して児玉希望に師事したが、40年郷倉千靭の作品に感銘を受けて入門した。その年第27回院展に<菜園>を出品して初入選、以後院展に出品をつづけた。院展では好成績を上げ、59年院同人となる。初めは花鳥画を描いたが、50年代後半から厳しい山岳風景に転じ、自然の森厳な姿を大画面に託した。78年から80年まで、愛知県立芸術大学日本画科の主任教授をつとめ、92年東北芸術工科大学芸術学部美術科主任教授として後進の指導にもあたった。
後藤 純男1930~2016
千葉県に生まれる。1946年山本丘人に師事、さらに丘人を介して日本美術院の田中青坪に師事した。52年、第37回院展に<蓮のある風景>を出品して初入選、以後院展に出品をつづけ、一貫して風景を描き、好成績を上げた。装飾的で、神秘な余韻を漂わせる筆致で大和の古寺を描いたシリーズによって、多くの人々に感銘を与え、その声価を不動のものとしたが、さらに中国の風景、風物にも新しい挑戦をつづけた。
竹内 浩一1941~
京都市に生まれる。1959年京都市立日吉ヶ丘高校日本画科を卒業、卒業後テキスタイル・デザインの仕事に従事する。その後日本画家を志し、66年晨鳥社に入塾して山口華楊の指導を受ける。この年、第9回新日展に<辺>を出品して初入選、以後日展に出品をつづける。77年<猿図>が第4回山種美術館賞を受賞、現代の花鳥画家としての声価を不動のものにする。84年、各派を越えた同世代の研究グループ「横の会」の結成に参加、意欲的な創作活動を行った。京都伝統の花鳥画に深い象徴性を盛り込んでいる。
中村 宗弘1950~
神奈川県に生まれる。父は美術史家中村渓男、祖父は日本画家の中村岳陵。高校3年生の1968年第11回新日展に<翠明>を出品して初入選、特選となり画壇にデビューした。71年から東山魁夷に師事し、日展に出品をつづけ、78年の初個展以来しばしば個展で作品を発表している。澄明な色調による抒情豊かな風景画を展開している。
西山 英雄1911~1989
京都市に生まれる。叔父の西山翠嶂に師事する。1931年第12回帝展に<静物>を出品して初入選し、京都市立絵画専門学校に在学中の34年、第15回帝展に<港>を出品して特選となった。47年第3回日展で再び特選、50年には審査員に推挙されている。桜島、阿蘇、富士など生命観あふれる山岳風景を激しい色彩によって描き、80年、芸術院会員に推挙された。京都教育大学、金沢美術工芸大学で多くの後進を育てた。
橋本 明治 1904~1991
島根県浜田町(現·浜田市)に生まれる。1931年、東京美術学校日本画科を卒業し、松岡映丘に師事する。1940年~1950年の間、法隆寺の壁画模写主任として活動。1952年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1955年、日本芸術院賞受賞。1974年、文化勲章を受章し文化功労者となる。日本画の伝統にとらわれず、強い描線による明快な形体と鮮やかな色彩が印象的な独自の作風を生み出した。
畠中 光亨1947~
奈良県に生まれる。大谷大学文学部卒業後、京都市立芸術大学に学ぶ。1970年パンリアル美術協会に入会、81年まで同会に出品する。この間、シェル美術賞展、東京セントラル美術館日本画大賞展、山種美術館賞展などに出品し、84年の「横の会」の結成に参加する。インドのミニアチュールやラジプト絵画を研究、単純な線や平面、顔料を用いた独自の画境を拓いた。
稗田 一穂1920~
和歌山県に生まれる。大阪に移り、1929年から10年間、阿倍野橋洋画研究所に学ぶ。33年大阪市立工芸学校に入るが、日本画家を志して39年東京美術学校日本画科に入学する。山本丘人に師事し、戦後の第1回日展に<東北の秋>で初入選する。48年、創造美術の結成に参加、以後は創造美術展、新制作協会展、創画展に出品する。人物、花鳥、風景など作域は広く、殊に、静かな詩情に満ちた風景の中の人物などに独特の画境を拓いている。東京芸術大学日本画科で後進の指導にもあたった。2001年文化功労者となった。
東山 魁夷1908~1999
横浜市に生まれる。本名新吉。1926年東京美術学校日本画科に入学、結城素明に師事する。33年、第1回日独文化交換学生に選ばれてベルリン大学哲学科美術史部に留学。37年初個展を開催、39年日本画院展の第1回展に出品して受賞。戦後の第3回日展に<残照>で特選、以後日展に出品をつづけ、「京洛の四季」シリーズや青を基調とした北欧風景の静謐な抒情性によって多くのファンを得た。65年芸術院会員、69年には毎日芸術大賞受賞、同年文化功労者に推挙されるとともに文化勲章を受章した。
平川 敏夫1924~2006
愛知県に生まれる。京都の着尺図案家稲石武夫の下で、染織図案を学んだが日本画を志し、1950年創造美術展に初入選し、以後新制作協会展、創画展に出品をつづけ、しばしば受賞した。伊勢湾台風で枯死したかに見えた樹木の再生する生命力に感動して以来、朱や白、黒を基調とした神秘的な樹木の描写に特色を示し、さらに墨画による壮大な風景を描いた。
平山 郁夫1930~2009
広島県に生まれる。1945年、学徒動員中に広島で被爆する。この体験が生涯を通じて作家活動の原点となっている。46年東京美術学校日本画予科に入学、前田青邨に師事した。53年第38回院展に<家路>で初入選、その後も院展に出品をつづける。59年第44回院展に出品した<仏教伝来>によって一躍注目を集め、以後仏教伝来シリーズ、シルクロード・シリーズ、近年は現代の洛中洛外図屏風を試みるなど、精力的な創作を展開した。東京芸術大学学長をつとめる一方、内外の遺跡調査・保存の事業にも積極的に参加し、援助活動のキャンペーンを行い93年、文化功労者となり、98年には文化勲章を受章した。
堀 文子1918~2019
東京に生まれる。1939年女子美術専門学校に在学中、第2回新美術人協会展に初入選する。戦後は創造美術展に第1回から出品、新制作協会展、創画展と出品をつづけている。52年、<山と池>によって第2回上村松園賞を受賞する。初期にはアンフォルメルなどの影響を想わせる作品を描いたが、61年ヨーロッパ、アメリカなどを巡遊後は、身近の花鳥や風景を詩情豊かに描いた。一方南米アマゾンやメキシコを旅し、新たなモチーフに挑戦したが、晩年は八ヶ岳山麓の山野や湘南の四季などを、素朴な筆致に托して描いた。多摩美術大学で多くの後進を育てた。
前田 青邨1885~1977
松尾 敏男1926~2016
長崎市に生まれる。1943年堅山南風に入門、47年第2回日本美術院小品展に<春容>が、また49年第34回院展に<埴輪>が初入選する。以後院展に出品をつづけ、しばしば受賞する。72年<海峡>によって芸術選奨新人賞、78年第63回院展出品の<サルナート想>によって日本芸術院賞を受ける。花、特に牡丹を好んで描き、花の画家として知られるが、人物、風景、花鳥と作域が広い。白を基調に、明るく典雅な作風を示し、2000年文化功労者となった。
吉田 善彦1912~2001
東京都に生まれる。本名誠二郎。1929年から速水御舟に師事、御舟の死後は小林古径に師事した。37年第24回院展に<もくれんの花>を出品して初入選、40年から法隆寺金堂壁画模写事業に参加する。64年日本美術院同人となる。60年の<桂垣>で初めて金箔を用い、以来、理知的な描線と淡い色調と金箔の品の良い光沢が融合した、独得の抒情的な画境を確立していった。院展での受賞の他、毎日芸術賞、日本芸術院恩賜賞などを受賞している。64年から東京芸術大学で後進の指導にあたった。
収蔵品一覧
「刈田余情」池田 遙邨
「存在」伊藤 紫虹
「雲たちの夜」岩橋 英遠
「池畔新雪」上原 卓
「雪野」上村 淳之
「暖日」上村 松篁
「春雪不二」小山 硬
「漁火」加藤 東一
「黄山煙雨」下保 昭
「心円」工藤 甲人
「富士」今野 忠一
「雪映大和路」後藤 純男
「越」竹内 浩一
「暮雪」中村 宗弘
「阿蘇の夜」西山 英雄
「夏座敷」橋本 明治
「舞妓」畠中 光享
「雰烟神瀑」稗田 一穂
「山霧幽玄」東山 魁夷
「奇峰湧雲」平川 敏夫
「平等院」平山 郁夫
「散る秋」堀 文子
「鯉」前田 青邨
「花かげ」松尾 敏男
「山の辺新秋」吉田 善彦
(五十音順)